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「私は日本人だ」が何故撃たれるのか

 

バングラデシュの首都ダッカで7月1日に起きたレストラン襲撃事件。日本人7人を含む22人が殺害された現場は私も訪れたことのあるダッカで外国人に有名なレストラン。

 

犠牲者のうちの一人が「私は日本人だ。撃たないでくれ。」と懇願していたことが目撃情報としてあがっていることもあり、日本人が狙われたという驚きをもって日本国内で報道されていたように思う。

 

類似の事件は世界中で毎日のように起きており、その全てが同様に扱われるべきなのかもしれない。こうした悲劇は比較されるべきものではなく、そうした意味ではダッカでの事件のみが特別にフォーカスされるべきではないのだろう。

 

とはいえ自分に馴染みのある場所で起きた事件には、やはり私も特別に心が動いてしまう。同じくバングラデシュの発展に尽力していた同胞の死には、やはり特別に思うことがある。ということで、「私は日本人だ」について考えてみる。

 

 

 

インターネット上で情報を探していると、「私は日本人だ」に対しての批判的な声が目に付く。日本国籍が安全確保に一役買った一昔前からは明らかに状況は変わってきており、そうした現状の認識不足というのが批判する側の多くが根拠とするものである。

状況変化についてはまさにその通りであり、批判の内容は的外れではないのかもしれない。しかしバングラデシュに住んでいた身からすれば、「私は日本人だ」と叫ぶことは大いに理解できるし、おそらく私がその場にいても同じように叫んだと思う。

 

バングラデシュは驚くほど親日な国であり、日本人であるというだけで特別に親切にされることが多い。バングラデシュに住んだことがある日本人にとって、日本人がバングラデシュ人から敵意をもたれるということは想像することすら難しい。これはおそらく、バングラデシュに限らず中東諸国など他のイスラム圏においても同じだろう。私自身ヨルダンやパレスチナでは多くのムスリムのお世話になったし、彼らは非常に日本に対して良いイメージを抱いていた。2012年にヨルダンからシリアに向かった際、一切の攻撃を受けずに済んだのは日本人であることが要因の一つだったようにも思う。

 

 

では何故、「私は日本人だ」が撃たれるのか。

 

 

遡って考えてみれば、2003年に始まったイラク戦争に日本政府が加担したことが一つの契機であろう。ビン・ラディンは日本を敵視し、彼が率いるアルカイダ、さらにその流れをくむISは日本を攻撃対象と見なすようになった。事実、2013年のアルジェリア天然ガスプラント襲撃事件では、今回のダッカ襲撃と同様にイスラム教徒が解放された一方で日本人は殺害された。

 

潮目をさらに変えたのは、2015年1月の中東歴訪中に安部首相が行った演説であろう。

「ISと戦う国々への2億ドル支援」の表明は、ISへの宣戦布告と位置付けられた。演説直後、シリアでは湯川さん、後藤さん2人の日本人が”戦争捕虜”として拘束・殺害された。続く安保関連法案採択は、かつての非戦国家としての日本のイメージを大きく失うことにつながった。今や日本を軍事国家と見なす人たちは決して少なくない。

以上の歴史的背景から、「私は日本人だ」は身を守る手段としては何の意味も為さなくなっている。

 

 

こうした憂慮すべき現状において、海外で自らの身を守るために何が大切になってくるのか。

 

 

今回、あるいは昨年10月に起きた邦人殺害の場合もそうだったが、援助を目的としてバングラデシュに滞在していた日本人が狙われた。援助のもたらす功罪については以前書いた通りであるが(「誰の、誰による、誰のための開発?」 / 「海外ドナーによる開発援助と被援助国の自助努力は両立し得るのか?」)、日本人の援助を快く思っていないバングラデシュ人は少なくとも私の知る限りはいない。

殺されるべき理由のない日本人が殺害された、言い換えれば、今回の事件が「筋が通らない」と主張することが一つの鍵ではないだろうか。

 

イスラムにおいて殺人は許されるものではないが、それでもISに多くの若者が惹かれる要因の一つはISがその暴力や殺人をジハード(聖戦)として正当化するからであろう。裏を返せば、外国人殺害がジハードとして正当化されなければ、若者の多くをISから遠ざけることができるかもしれない。

 

既に触れたように、彼らにジハードとしての口実を与えたのは2015年の首相演説だった。これは非常に残念な歴史的事実であるが、一方で無視できない事実も存在する。日本は過去、バングラデシュあるいは中東などに軍事的侵略をしたこともなく、ムスリムを殺害したこともない。これは欧米諸国と日本を決定的に分ける事実であり、上述の親日感にも繋がっているのであろう。「ムスリムを殺害していない日本人がジハードの名の下にムスリムを名乗る人間に殺される」不当性こそが、日本が世界に向けて発信すべきことではないだろうか。

 

 

私の提案は理想論かもしれない。平和ボケと言われるかもしれない。他国からの威力に対して話し合いでの解決を主張したSEALDsがかつて大バッシングを受けたことからも分かるように、「武力を以って武力を制する」ことを好む日本人は少なくないのだろう。

 

確かに、ISに対して私の提案が有効とは思わない。しかしISに惹かれる若者の心を動かすには一定の役割を果たせるかもしれない。かつてのアルカイダなどが一部のイスラム過激派で構成されていたのに対して、ISの特徴は世界中からの若者を取り込んでいることにある。最近のホームグロウンテロも元を辿ればそうしたISの特徴に起因する。

 

 

世界の対局を「イスラムvs非イスラム」の二元論で語ってしまいがちな昨今。非常に悲しむべきことに、イスラムを残虐で野蛮な悪と見なす人も少なくない。「イスラムvs非イスラム」の構図は非常に分かりやすいかもしれないが、その構図こそがISにとって非常に都合の良いものであり、多くの若者を惹きつける理由であろう。

 

「武力を以って武力を制する」のではなく、他者理解と平和主義が結局は身を守るための最善の策なのではないだろうか。

 

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(写真:2012年9月/パレスチナ首都ラマッラー)