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流行っていい流行と流行っちゃいけない流行がある。

 

先週末、上野の国立科学博物館で見てきた「グレートジャーニー 人類の旅」

展示の主題は人類の進化とその暮らしに関するものでしたが、その背景には旅人・関野吉晴が抱く、現代人の生き方や生活様式への疑問、世界の民族に残る伝統的な生活様式から教えを抱こうとする姿勢がありました。彼が鳴らそうとしている現代社会への警鐘は、多いに共感できるものがありました。

 

 

僕には、今の世の中がこう感じられる。

みんな同じような服を着て、同じような髪型・化粧、さらには持ち物まで。それは日本国内だけに留まらず、世界の多くの文化都市で広く見られる。現代社会における高度な文明化とグローバル化は、一見すると地球上のあらゆるものの繋がりによる横の広がりを生み出しているようで、実は“流行”という名の下での単なる差異の消失のようにも感じられる。

 

外見だけなら別にいい。どんな流行が生まれようが、どんなに流行に染まろうが、別にいい。

 

僕が最も危機感を抱いているのは、本来は人それぞれ当然違ってしかるべき内面にも“流行”が存在し、その影響が余りに大きすぎるものに感じられること。この情報社会において、各個人の中で情報が情報の域を超えられないでいる。他人の意見が情報として取り込まれ、そのまま自分の意見に置き換わるっている。

 

朝のニュース番組でアナウンサーやらタレントやらが発するとても的を得てるとは言い難い意見は、その日の昼にはそのまま多くの日本人の意見となる。どっかの偉い評論家が述べたことは、その発言そのものがエビデンスとして引用されるようになる。週刊誌やらテレビCMに溢れる“もっともらしい真実”は、いつの間にか広く市民権を得るようになる。そうしたことは、日本だけでなく世界各地で、あるいは国を超えて起きている。

 

人類の歴史を振り返れば、大きさや種類は様々ではあれど、何かしらの形で流行というものは存在してきた。それは文明の発展にも寄与してきただろうし、文化の構築にも役立ってきた。
だけど一方で、現代における流行はさらに深い所にも及んでしまっている。それはまた、社会に対しても同様である。この種の流行は、文明や文化を先へと押し進めるどころか、その腐敗を招くことしかしないと思う。さらに言えば、人間の本質、人間が人間たるものすらも失わせてしまうかもしれない。

 

続く。