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バングラデシュの犠牲祭!

 

昨日はイスラム教徒にとっての祝祭、イード・アル=アドハーでした。

 
 

国民の90%がムスリムで占められるここバングラデシュでも盛大に祝われていたので、今日はそれについて。なかなか衝撃的、かつツッコミどころ満載でした。

 
 

イード・アル=アドハー。イスラム教徒にとっての正式名称はこれですが、バングラデシュでは一般的にコルバニー・イードと呼ばれます(コルバニは供出する動物の意。ちなみにイードはもう一つ、断食明けのロジャ・イードもあります)。と言ってもピンと来ないでしょうが、日本語ではしばしば犠牲祭と意訳されます。こっちの方がイメージが湧くでしょうかね。

 

そもそもどんな日かというと、アブラハムが息子のイスマエルを神アッラーへ進んで犠牲として差し出したことに由来します。これを記念して、世界中から多くのムスリムがサウジアラビアのメッカに巡礼を行います。

とはいえ全てのムスリムがメッカまで行けるわけではないので、行けない人は自分の土地でアッラーに犠牲を捧げます。アブラハムのように自分の息子を捧げるわけにはいかないので(しかも毎年)、牛や羊、ラクダなど家畜を捧げます。国によって違うみたいですが、バングラデシュでは一般的にお金がある人は牛(3〜8万タカ = 4.5〜12万円)、牛が買えなければ小さくて安いヤギを捧げます。

 
 

ということで、コルバニー・イードの1週間くらい前になると、バングラデシュの至る所に牛が出現します。

 

運搬するトラック、あるいはトラックからゆっくりと降りて歩いていく牛のせいであらゆる道路が渋滞になります。僕も先週ダッカから任地に帰る時、しっかり牛渋滞に巻き込まれました。

 

街中には昨日まで何もない広場だったはずの場所に突如として牛マーケットが出現します。

 

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売られている牛はこうして繋がれているのでまだ良いんですが、買われた後の牛が問題だったりします。

 

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こんな感じで人と牛が雑多な感じで混在しちゃいます。死期を悟ったわけではないでしょうが、当然暴れ始める牛もいますし、発情して交尾を始めようとする牛もいるわけです。ベンガル人も牛の扱いがさほど上手いわけでもないので、非常に危ない。憶測ですが、暴れた牛に巻込まれての死亡例が毎年起こっている気がします。犠牲祭の生贄のせいで自分が犠牲になるなんてことが無ければいいんですが…。

 

牛を購入したベンガル人は自宅へ連れて帰ります。いわゆるドナドナです。当然のことながら、こうしてドナドナを拒否する牛も出てきます。その結果また渋滞が起こったりします。

 

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連れて帰った牛はイード当日まで自宅前に繋がれるので、街を歩いている時に「あれ、ここ農家だったっけ?」ということがよく起こります。

 

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かく言う僕の家も、1階の駐車場がある日突然牛舎になっていました。門を開けたら門番じゃなくて牛がいるのはなかなかの驚きです。

 

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こうしてイード当日を迎えるわけですが、その前に疑問が。この牛達、どこから来たんだろうと。バングラデシュには普段こんなにたくさんの牛はいません。

 

まさか…

 

そうです、隣国インドから来ているらしいです。

 

何かがおかしいですね。とてもおかしいです。

 

何を隠そう、インドは大部分がヒンドゥー教徒の国。ヒンドゥー教徒にとって牛は一種の神様です。

 

そうなんですね、インドで神様だったはずの牛がバングラに輸出されてるんです。インド人、神様売っていいの?とツッコミたくなりますが、この資本主義の時代、お金には代えられないんでしょうね。

とにもかくにも、神様である牛は国境を越えた瞬間、他の神様への犠牲用の家畜になるわけです。

隣の国の神様を自分の国の神様に生贄として捧げるバングラデシュ人の気持ちも気になるところです。

 

また職場の同僚に聞いた話ですが、2,3年前の犠牲祭の時、インドからあまりにたくさんの牛が輸出されてきたせいで、市場で供給過剰が起こり市場価格が大暴落したそうです。

 

そうです、神様が市場に過剰供給され、神様の価値が大暴落したんです。

 

こんな感じでツッコミどころ満載の日々を経て、ついにイード当日です。

普段はいつも渋滞している幹線道路も、この日の朝は静まりかえります。

 

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朝8時のお祈りの後、ついにジョバイ(アッラーに祈りを捧げながら生贄を捧げる、つまり牛を殺す)が行なわれます。

ジョバイのルールとして、牛は持ち主を含め家族や周辺住民が抑えます。また実際にジョバイする(牛の頸部に刃物を入れる)のは、各コミュニティにいる担当者がいます。たいてい、ムスリムの宗教学校の生徒だったりします。

 

彼がジョバイ担当者。リストを持って複数の家を回ります。すでに1件済ませてきたらしく、ナイフに血が付いています。写真には写っていませんが、白い服にも返り血が付いてたりします。知らない外国人からすると、彼は完全に逃亡中の殺人者です。

 

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ジョバイ担当者が来るのを待ちわびる家族。心なしか、牛が悲しそうな目をしているようにも見えます。

 

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この先の写真は控えますが、ジョバイが終わった牛は牛の所有者が自分たち自ら綺麗に皮を剥いで、さらにきれいに解体していきます。僕は保健衛生事務所の所長宅にお邪魔してたんですが、彼はさすがお金持ち、大きな牛を2頭買っていたので解体も大変です。お手伝いさんや家族など、総勢10名で昼過ぎまでかけて解体してました。

解体した肉や臓器はもちろん、頭部も含め骨と消化器内容物以外のほぼ全てを食べます。

 

昼前になると剥いだ皮を回収する人が現れ、一軒一軒牛皮を集めて回ります。こうして集められた牛革はどこかしらの工場で靴などの革製品に加工されます。神様は生贄となり、さらには履物になっちゃうわけです。

 
 

こんな感じのコルバニー・イード。側から見ていて感じるのは、本来もっと宗教的な意味があるはずの祭典が、単なるお祭りになっちゃってるなと。でもしょうがないかもしれない。特に中流階級以下の人たちにとっては普段食べられない牛肉orヤギ肉がたくさん食べられるわけですから。さらに言えば、日本も同じですよね。クリスマスしかり、正月しかり。今の時代、多くの国がこうした現実を抱えているのかもしれません。

 
 

一方で、この祭りが果たしている意義も大きいように思います。

 

まず一つは、自分たちが口にしている食肉がどのようにして得られているかを学ぶ貴重な場であるということ。多くの日本人にとって、肉というとスーパーできれいにパッケージングされたものを思い浮かべてしまい、ついついそれが尊い命であったことを忘れてしまいがちです。こうして自分たちで牛をつぶして、命を頂くということを身を持って経験する。今の日本人に足りていない経験かもしれませんね。牛を殺すというと残酷なようにも思えますが、もしかすると自分たちが他の命を口にしているということを考えなくても済んでしまう僕ら日本人の方が残酷なのかもしれません。

 

また、こうして得られた肉が貧しい人たちにも配られるということ。イスラム教の教えで喜捨という言葉がありますが(正確に言えば仏教用語らしいですが)、これが貧しい人に自分の財産を分け与えるというもの。このコルバニー・イードにおいても、牛の3分の1は自分たちで消費し、3分の1は親しい人に配り、3分の1は貧しい人に分け与えます。

 

僕の街でも、こうしてモスクに集めた肉を計りを使ってきちんと重さを計り、貧しい人たちに公平に配っていました。

 

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こうした寄付文化のようなものは、イスラム・キリスト教国と比較して日本が圧倒的に不足しているものかと思います。

生活保護などの行政サービスだけではなく、こういった地域コミュニティの中で支え合う方法から学ぶ点は多いのかもしれません。

 
 

また、単なる祭りとして形骸化していると上で書きましたが、祭りは祭りとして家族が故郷で集まっているのも事実です。日本では正月も盆も仕事だったり旅行に行っちゃったりしますが、バングラデシュでは普段忙しい人も多くが故郷へ里帰りします。たった1日でも、わざわざ帰ったりします。そうして家族が集まり、みんなで料理をして食事を楽しむ姿は、かつての日本にあり今の日本が無くしてしまったものかもしれません。

 

そうやって考えていくと、このコルバニー・イードがバングラデシュ社会の中で果たしている役割は想像以上に大きいのかもしれませんね。

 
 

【余談】

 

牛市場では当然売れ残る牛もいるわけです。売れ残りがどうなるのか気になって聞いてみたところ、一部は再びインドへ帰っていくそうです。つまり、神様は生贄となり、売れ残りの生贄はまた神様になるわけです。そしてまた来年、生贄候補としてバングラデシュに帰ってくるんでしょう。牛も大変ですね。

 

また今年くらいから、牛の輸出がインド側で制限され始めているようです。神様だから大事にしようということなのか、神様だから市場価格の暴落を下げようとしているのか、インド人の本心は明らかではありません。