アーカイブ

Archive for the ‘Bangladesh’ Category

「私は日本人だ」が何故撃たれるのか

 

バングラデシュの首都ダッカで7月1日に起きたレストラン襲撃事件。日本人7人を含む22人が殺害された現場は私も訪れたことのあるダッカで外国人に有名なレストラン。

 

犠牲者のうちの一人が「私は日本人だ。撃たないでくれ。」と懇願していたことが目撃情報としてあがっていることもあり、日本人が狙われたという驚きをもって日本国内で報道されていたように思う。

 

類似の事件は世界中で毎日のように起きており、その全てが同様に扱われるべきなのかもしれない。こうした悲劇は比較されるべきものではなく、そうした意味ではダッカでの事件のみが特別にフォーカスされるべきではないのだろう。

 

とはいえ自分に馴染みのある場所で起きた事件には、やはり私も特別に心が動いてしまう。同じくバングラデシュの発展に尽力していた同胞の死には、やはり特別に思うことがある。ということで、「私は日本人だ」について考えてみる。

 

 

 

インターネット上で情報を探していると、「私は日本人だ」に対しての批判的な声が目に付く。日本国籍が安全確保に一役買った一昔前からは明らかに状況は変わってきており、そうした現状の認識不足というのが批判する側の多くが根拠とするものである。

状況変化についてはまさにその通りであり、批判の内容は的外れではないのかもしれない。しかしバングラデシュに住んでいた身からすれば、「私は日本人だ」と叫ぶことは大いに理解できるし、おそらく私がその場にいても同じように叫んだと思う。

 

バングラデシュは驚くほど親日な国であり、日本人であるというだけで特別に親切にされることが多い。バングラデシュに住んだことがある日本人にとって、日本人がバングラデシュ人から敵意をもたれるということは想像することすら難しい。これはおそらく、バングラデシュに限らず中東諸国など他のイスラム圏においても同じだろう。私自身ヨルダンやパレスチナでは多くのムスリムのお世話になったし、彼らは非常に日本に対して良いイメージを抱いていた。2012年にヨルダンからシリアに向かった際、一切の攻撃を受けずに済んだのは日本人であることが要因の一つだったようにも思う。

 

 

では何故、「私は日本人だ」が撃たれるのか。

 

 

遡って考えてみれば、2003年に始まったイラク戦争に日本政府が加担したことが一つの契機であろう。ビン・ラディンは日本を敵視し、彼が率いるアルカイダ、さらにその流れをくむISは日本を攻撃対象と見なすようになった。事実、2013年のアルジェリア天然ガスプラント襲撃事件では、今回のダッカ襲撃と同様にイスラム教徒が解放された一方で日本人は殺害された。

 

潮目をさらに変えたのは、2015年1月の中東歴訪中に安部首相が行った演説であろう。

「ISと戦う国々への2億ドル支援」の表明は、ISへの宣戦布告と位置付けられた。演説直後、シリアでは湯川さん、後藤さん2人の日本人が”戦争捕虜”として拘束・殺害された。続く安保関連法案採択は、かつての非戦国家としての日本のイメージを大きく失うことにつながった。今や日本を軍事国家と見なす人たちは決して少なくない。

以上の歴史的背景から、「私は日本人だ」は身を守る手段としては何の意味も為さなくなっている。

 

 

こうした憂慮すべき現状において、海外で自らの身を守るために何が大切になってくるのか。

 

 

今回、あるいは昨年10月に起きた邦人殺害の場合もそうだったが、援助を目的としてバングラデシュに滞在していた日本人が狙われた。援助のもたらす功罪については以前書いた通りであるが(「誰の、誰による、誰のための開発?」 / 「海外ドナーによる開発援助と被援助国の自助努力は両立し得るのか?」)、日本人の援助を快く思っていないバングラデシュ人は少なくとも私の知る限りはいない。

殺されるべき理由のない日本人が殺害された、言い換えれば、今回の事件が「筋が通らない」と主張することが一つの鍵ではないだろうか。

 

イスラムにおいて殺人は許されるものではないが、それでもISに多くの若者が惹かれる要因の一つはISがその暴力や殺人をジハード(聖戦)として正当化するからであろう。裏を返せば、外国人殺害がジハードとして正当化されなければ、若者の多くをISから遠ざけることができるかもしれない。

 

既に触れたように、彼らにジハードとしての口実を与えたのは2015年の首相演説だった。これは非常に残念な歴史的事実であるが、一方で無視できない事実も存在する。日本は過去、バングラデシュあるいは中東などに軍事的侵略をしたこともなく、ムスリムを殺害したこともない。これは欧米諸国と日本を決定的に分ける事実であり、上述の親日感にも繋がっているのであろう。「ムスリムを殺害していない日本人がジハードの名の下にムスリムを名乗る人間に殺される」不当性こそが、日本が世界に向けて発信すべきことではないだろうか。

 

 

私の提案は理想論かもしれない。平和ボケと言われるかもしれない。他国からの威力に対して話し合いでの解決を主張したSEALDsがかつて大バッシングを受けたことからも分かるように、「武力を以って武力を制する」ことを好む日本人は少なくないのだろう。

 

確かに、ISに対して私の提案が有効とは思わない。しかしISに惹かれる若者の心を動かすには一定の役割を果たせるかもしれない。かつてのアルカイダなどが一部のイスラム過激派で構成されていたのに対して、ISの特徴は世界中からの若者を取り込んでいることにある。最近のホームグロウンテロも元を辿ればそうしたISの特徴に起因する。

 

 

世界の対局を「イスラムvs非イスラム」の二元論で語ってしまいがちな昨今。非常に悲しむべきことに、イスラムを残虐で野蛮な悪と見なす人も少なくない。「イスラムvs非イスラム」の構図は非常に分かりやすいかもしれないが、その構図こそがISにとって非常に都合の良いものであり、多くの若者を惹きつける理由であろう。

 

「武力を以って武力を制する」のではなく、他者理解と平和主義が結局は身を守るための最善の策なのではないだろうか。

 

DSC_0447.JPG

(写真:2012年9月/パレスチナ首都ラマッラー)

最善を願いつつ、最悪に備える

(一部削除・修正を加えました。2015.10.16)

 
 

日本でも報道されているようですが、先日ここバングラデシュで邦人殺害事件が起こりました。

 

バングラデシュの地で志を持って日々を過ごしていたであろう日本人の殺害事件は、まだたった3ヶ月とはいえ同じくバングラデシュで活動をする身として非常に悲しく、また無念でならない。心からご冥福をお祈りいたします。

 

一方で、喪に服しているばかりいるわけにもいかず、自分の身は自分で守らなければならないのも確か。

 

こうした状況の中、記録として、ここまでの経過とそれに対する僕の今の心境を綴っておこうと思います。

 
 

【経過】
 

9月28日夜、首都ダッカでジョギング中のイタリア人がバイクに乗った何者かに銃撃され死亡。ISILバングラデシュを名乗る組織が犯行声明を発表。
現場はJICA事務所から隊員ハウスまでの中間地点。各国大使館などが置かれる外国人が多く住む地域。

 

10月3日午前、北西部ロングプールにおいてリキシャに乗った邦人がバイク3人組の銃撃され死亡。
自分自身も地方巡回活動中だったが、速やかに帰路につく。
夜になってISバングラデシュ支部を名乗る組織が犯行声明を発表。

 

10月4日、自宅待機。自宅に蓄えてあった食料等を食べて過ごす。

10月5日、最悪の場合、そのまま国外退避になる可能性も考えて私物のほぼ全てをパッキングしてダッカへ移動。午後ダッカ到着。
外務省の海外安全情報、警戒レベルが1から2へと引き上げ。

 

10月9日、先にロングプールで拘束されていた容疑者の供述によって、バングラ西部の街ラッシャヒで事件に関与したと思われる2名が新たに拘束される。

 

 

===

 

 

日本ではあまり報道されていなかったようですが、先月28日の事件発生はバングラでは非常に大きなインパクトを持って報道されました。外国人をピンポイントで狙っていたこと、人通りの多いダッカ中心部での出来事だったこと、そしてISの犯行声明が出たこと。

 

バングラで生活する日本人にとってももちろん驚きではありましたが、一方で「あくまでも欧米人、日本人ではない」といった感覚もあったように思います。日本人が欧米人同様に標的となる可能性はかねてから指摘されていましたが、まだその実感がなかった、あるいはその可能性を否定したいという思いがどこかにあったのかと思います。

 

そうこうしているうちの、10月3日。日本人にとっても、あるいはベンガル人にとっても大きな衝撃だったようです。
日本を十字軍同盟の一員として敵視する姿勢をイスラム過激派はイラク戦争以降続けていましたが、上述のように「いずれ起こるかもしれない」というのと、「実際に起きてしまった」の間には大きな違いがありました。

 

協力隊員に与えた影響も当然大きかったように思います。僕を含め「巡回型」と呼ばれる隊員は、今回の事件現場のような農村部を徒歩やリキシャで日々移動しながら活動しています。事件当日、僕も事件現場と同じような場所で活動中に緊急連絡を事務所から頂きました。自分が被害にあっていたかもしれない、ということはやはり考えてしまいます。

 

現在、事件の全貌については分からないことだらけ。
ISの犯行声明こそ出ているものの、その信憑性は不明。バングラ政府は対立野党の仕業ではないかと主張。個人的な恨みなどによる単一的な事件の可能性も捨てきれない。その前のイタリア人殺害についてはさらに不明。ダッカ市内の警戒態勢は強化されているが、事件の続報はほとんどない。

 

 

では、どう考えるか。

 

 

今後の協力隊としての活動の可否については、今回の犯行が何によって行われたかはさほど重要でないように感じます。ISにせよ、野党勢力にせよ、個人的な遺恨によるものにせよ、無差別的であったり金銭目的の事件・事故とは異なり、邦人の命がピンポイントで狙われたという事実は大きく、同様の事件が今後再び起こる可能性は十分考えられる。

 

あわせて厄介なのは、状況の改善を判断するための具体的な基準がないということ。仮に今後1ヶ月、あるいは半年間同様の事件が起きなかったとしても、それでもなお不安は拭いきれない。「いずれ起きるかもしれない」と「実際に起きてしまった」はやはり違う。一度起こってしまった以上、近いうちに再び起こる可能性は今後しばらく捨てきれない。
 

協力隊事業の性質的に、安全が高いレベルで保証されている地域での活動が協力隊員にとって必要となる。
ではこの状況の中で、協力隊事業を続ける価値はどれほどあるのだろうか。

 

縁起の良い話ではないが、隊員が屋外で(特に巡回型で)活動する場合、同様の事件に巻き込まれる可能性は十分に考えられる。

 

そうなった場合、協力隊員はもちろん、場合によってはJICA専門家や民間の駐在員などの即座の国外退避に繋がる可能性がある。そうした悲劇が起きてしまえば、JICAが、特にボランティア事業がこの国で再び再開されるには長い時間が必要となるだろう。

 

また繰り返しになるが、フィールドでの活動に対しての安全を期待できるようになるためには長い時間がかかることが見込まれる。ということは当然、自宅待機が長い間必要となる。そうなると、間違いなく「ちょっとくらいいいか」という気持ちが隊員の中に芽生えてくる。今の状況を長期間に渡って維持するのは、事務所にとっても隊員個人にとっても難しい。

 

そういう状況を考えると、一時帰国あるいは任国変更(派遣国変更)ということが選択肢に入ってきてしまう。

 

 

たった3ヶ月とはいえ、バングラの文化を学び、人々の優しさに触れ、たくさんの問題と可能性を見つけて。ここを離れるのはもちろん寂しい。できることならば、この国で2年間を全うしたいと強く願う。

 

一方で、協力隊員の任期はわずか2年。いつ活動再開できるか分からず、再開後も付きまとう不安。リスクを抱えてまで行うべき活動ではないことは重々承知。

 

ましてや、先にも書いたように、万が一が起こった場合には多くのドナーが撤退し、バングラも大きな不利益を被る。バングラ人やムスリムの優しさを知っているからこそ、彼らに対する偏見がこれ以上広がるのも避けたい。そのためにも撤退を選択肢として考える必要はある。

 

むやみやたらと怯える必要はないけれど、一方で「自分は大丈夫だろう」という根拠のない自信も考えもの。
協力隊員としての立場でここにいる以上、自らが巻き込まれた事件・事故は、バックパッカーが個人的に巻き込まれたそれとは全く異なるもの。

 

不安に耐えながらの活動は一種の満足感をもたらす。しかしそれが自己満足に過ぎないことは認識すべき。僕自身、過去にそうした失敗をしてきたけれど。
また、自分の立場や活動の意義はわきまえる必要もある。ある程度のリスクが不可避な緊急援助等とは異なり、僕らがやっているのは協力隊事業。リスクを負うべき状況なのか、リスクを避けるべき状況なのか、その判断は欠かせない。

 

もちろんこれらは個人の判断や希望だけで決まることではなく、あくまでJICAの判断を仰ぐしかないけれど。

 

 

「最善を願いつつ、最悪に備える」

 

僕にとっての「最善」は、
事態が好転し、以前のように活動を再開してバングラデシュでの2年間を全うすること。
一方で、
国外退避や任国変更といった「最悪」の事態も想定しつつ準備を進める。

 

悲観的でもなく、楽観的でもなく、そんなことを考えながら過ごしています。

 

DSC_0819

 

バングラデシュの宗教事情

 

先日色々と反響を頂いた記事、「バングラデシュの犠牲祭!」。

 

 

自分で後から読み返してみたんですが、中盤以降まるでバングラデシュが全てムスリム、

インドが全てヒンドゥーで占められているような書き方になっていました。反省。

 

実際バングラデシュには90%のイスラム教徒の他に、10%のヒンドゥー教徒、そしてキリスト教徒や仏教徒も1%弱程度います。

圧倒的にムスリムかと思えば、そんなこともない。

1割が異教徒ですからね、1割っていうと結構な割合。

 

ということで、僕の仲良いベンガル人にもヒンドゥーが何人かいるので、聞いてみたんです。気になってたことを。

 

「犠牲祭の時ってヒンドゥー教徒って何してるの?というか、どう思ってるの?」

 

って。

気になりますよね。だって彼らにとって牛は神様ですから。

自分たちの神様が街の至る所で犠牲として捧げられて、みんなそれを食べるわけですから。

 

デリカシーに欠けた質問かもしれないと思いつつ、

ヒンドゥー教徒でさえ「イードムバラク」(犠牲祭おめでとうの意)って言うので、ついつい聞いてみました。

 

そうしたら、いつもは饒舌なのに急に言葉を濁してしまったりして。

やっぱり無配慮な質問だったことに気が付いて、非常に申し訳ない気持ちになりました。

 

でも一方で、

「俺はもちろん殺さないし食べもしないけど、一種のお祭りだからムバラクでいいんだ」

とか

「牛のことは別として、家族が一堂に集まることが大事なことなんだ」

っていう人もいました。

 

すごい割り切り方だなと思いつつ、よく考えたら日本も同じかもしれないですね。

 

キリスト教徒でもないし、教会にも行かないけど、メリークリスマスとか言って盛大に楽しんじゃったり、

普段は全然行かないし、誰に向かって拝んでるかも良く分からないけど、正月は何となく初詣してみたり。

そして何となく家族や友達、恋人が集まったりしますね。

 

 

テレビを点ければ地球の裏側の出来事まで瞬時に分かってしまい、

”外国人がいない地域”なんてほとんどないような今の時代。

宗教を背景とした文化や価値観が混ざり合い、きっと多くの国で宗教のあり方が少しずつ変わっているんでしょうね。

 

 

 

さて、宗教のあり方といえば、バングラデシュでの宗教のあり方は日本のそれと違って興味深いです。

 

 

その前に、バングラデシュの近代史の話になりますが、

ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の宗教対立を主な理由として、1947年に二つの国家が分離独立・建国されました。

 

ひとつはヒンドゥー教徒が多数派を占める国、インド。

もうひとつはイスラム教徒が多数派を占める旧パキスタン。

 

この旧パキスタンってどこ?と思う方もいると思いますが、今のパキスタンとバングラデシュを合わせた国です。

現パキスタンは西パキスタン、現バングラデシュは東パキスタンと呼ばれ、つまり両国はもともと一つの国でした。

 

しかしこの東西パキスタン、同じイスラム教徒主流の地域ということで仲良く一緒に独立したのはいいんですが、

地理的にはすごく遠いんです。

 

スクリーンショット 2015-10-01 22.39.56

 

これだけ遠いと、民族も言語も何もかもが違います。

むしろ共通項はイスラム教が主流、ということくらいです。

 

さらに西パキスタンの方が面積は圧倒的に大きいにも関わらず、人口は東パキスタンの方が多く、

首都は西パキスタンにあるのに対して、外貨収入が多いのは麻産業が盛んだった東パキスタン。

こんないびつな関係の中、政府は西パキスタンを中心とした政策を進め、さらには西パキスタンの言葉であるウルドゥー語を公用語と制定。

 

そんなこんなで東バングラデシュが黙っているわけもなく、再び内戦が起きて、最終的にはバングラデシュとして独立。

 

インドからの分離独立の際に「宗教としての一体感」が原動力となったのに対し、

この時の原動力となったのは、ベンガル人という「民族としての一体感」だったそうです。

 

 

話がだいぶ逸れましたが、なぜ近代史の話を持ち出したかというと、

宗教だけではまとまれないこと、宗教対立が悲劇を生むことををバングラデシュは歴史的に学んでいるわけです。

 

そうした背景のせいか、バングラデシュでは宗教の違いに対して非常に寛容。

同じ集落の中にイスラム教徒の家とヒンドゥー教徒の家が混在していることなんてザラにありますし、

僕のはす向かいの家なんてイスラム教徒とヒンドゥー教徒が一緒に暮らしています。

しかも二人とも比較的敬虔な信者だから尚更驚きです。

 

だから、犠牲祭の時に街で牛が犠牲になるのも、多くのイスラム教徒が日常的に牛肉を食べることも、

他人は他人としてヒンドゥー教徒は比較的穏便に受け入れられるんでしょうね。

 

またこうした国民性は、政府レベルにも浸透しています。

 

バングラデシュには宗教省というものがあり、各宗教ごとに支援策が設けられています。

実際にはモスク建設やメッカ巡礼支援などのイスラム教徒支援策が多いのは事実ですが、

「宗教的中立=無宗教(政教分離)」を原則とする日本とは異なるわけです。

 

 

宗教、民族、文化、学問的指向など個々のアイデンティティーを構成する要素はたくさんありますが、

ともすれば世界中で多くの紛争の原因となっているような、宗教という一点での対立関係は何なのだろうとも思ってしまいます。

 

 

物心つく前から選択の余地なくたった一つの宗教を学び、

それをアイデンティティーとしてしまうことはリスクが高いのかもしれない。

あるいは宗教中立という名の下にいずれの宗教からも距離を置いてしまうことは、

現代の世界が抱える問題の本質を理解する妨げになるのかもしれない。

 

バングラデシュのように幼い頃から多様な宗教的価値観に触れることが、

もしかすると何かしらの問題解決の一助になるのかもしれない。

 

最近はそんなことを考えます。

 

DSC_0240

 

 

 

 

人口増加と国際協力

 

人口密度が世界一高い国の一つであるバングラデシュ。

 

3ヶ月住んでみて、それを実感する場面は多々ある。兎にも角にも、至る所が人で溢れている。

 

そういった生活の中で頭に浮かぶキーワードは、人口増加。

今日ふと思い出してパソコンの中を探してみたら、ありました。

去年のちょうど今頃、こんなメモを書いたまま、どこにも公開せずに埋もれていました。

今になって読んでみると、自分自身にとっても興味深かったので、今更ながら公開してみます。

 

 

=====
 

人口増加。

 

食物連鎖の頂点にいる人間にとって、天敵と言えるような動物はいない。

現代において、人間の最大の天敵は人間なのかもしれない。

人間の生み出す貧困や紛争が、人間を生命の危機へと追いやる。

そうした危機的状況では乳幼児死亡率が異常に高くなるので、より多くの子孫を残そうとして多産の傾向になる。

そうして、さらに人口が増加する。

 

人類70億人時代を迎えた今になっても人口の増加に歯止めがかかる様子は全くなく、むしろさらに増え続けていくと考えられる。

 

 

資源の枯渇、ゴミ処理問題。

 

先進国での私たちの暮らし。大量の資源とエネルギーを消耗しながら、大量のゴミを排出している。

WWFなどが指摘しているように、現代における私たちの生活スタイル(水準)は、既に地球のキャパシティを大きく超えているのだろう。

数十億年かけてつくられた石油燃料や木材資源など、いわば地球が長い間蓄えてきた”貯金”を利用することで、

一見今の生活が維持できているように思えているが、所詮は貯金の切り崩しでしかない。

いずれ、今のスタイルの限界が来るのは目に見えている。

 

 

僕らが思い描く国際協力とは何だろう。

 

その最終段階が何かを考えたとき、途上国の生活水準が先進国のそれと同等になることをついイメージしてしまいがちである。

 

しかし、上に挙げた二つの理由(人口増加問題と地球のキャパを超えた先進国の生活スタイル)からして、それは不可能なことなのかもしれない。

 

ではどうするか。

 

人口増加を止めるのは非常に難しい。

途上国の貧困や紛争を解決できれば増加の速度を緩めることはできるかもしれないが、止めることはやはり難しいと言わざるを得ない。

仮に止めることができたとしても、”既に多すぎる”のが現状である以上、そこからさらに減らしにかからないといけない。

一度増えた人口を減らすというのには、どれだけの困難を伴うだろうか。

 

ともすれば、先進国の生活スタイルを変えるのが最も現実的、かつ効果的な方法なのかもしれない。

近年中国が、あるいはサブサハラの中でも比較的進んでいるアフリカ諸国が今後主張するであろうに、

そして高度経済成長期の日本がそうであったように、途上国の国々は先進国に追いつけ追い越せと意気込む。

先進国の人たちと同じような生活を営むことに途上国が憧れるのは当然だろうし、そうした豊かな暮らしを目指した”開発”や”援助”も行われている。

 

しかし何度も言うように、現在の先進国の生活スタイルは、先進国に住む今の人数の人たちだけでも十分に地球のキャパを超えている。であるのに、”先進国”がさらに増え、同様の生活を営む人数がさらに増えるとどうなるのか。

 

そういったことを考えていくと、最終段階として私たちが行わなければならないのは「途上国の生活水準を向上させること」ではなく、「先進国の生活水準を下げること」だという結論に達する。

 

 

先進国「環境汚染もひどいし食料も資源も足りないので、途上国は発展の速度を緩めて下さい。いや、これ以上発展しないで下さい。」

 

途上国「過去に同じ過ちを犯してきたお前達になんでそんなこと言われなきゃならいんだ!俺たちにもお前達と同じ生活をさせろ!

 

先進国「…分かりました。私たちの生活水準をここまで下げます。なので、どうかあなた方の発展もここまでにして下さい。」

 

そんな議論が国際社会で繰り広げられる時代がもうすぐ来るのかもしれない。

 

DSC_0323
 

バングラデシュの犠牲祭!

 

昨日はイスラム教徒にとっての祝祭、イード・アル=アドハーでした。

 
 

国民の90%がムスリムで占められるここバングラデシュでも盛大に祝われていたので、今日はそれについて。なかなか衝撃的、かつツッコミどころ満載でした。

 
 

イード・アル=アドハー。イスラム教徒にとっての正式名称はこれですが、バングラデシュでは一般的にコルバニー・イードと呼ばれます(コルバニは供出する動物の意。ちなみにイードはもう一つ、断食明けのロジャ・イードもあります)。と言ってもピンと来ないでしょうが、日本語ではしばしば犠牲祭と意訳されます。こっちの方がイメージが湧くでしょうかね。

 

そもそもどんな日かというと、アブラハムが息子のイスマエルを神アッラーへ進んで犠牲として差し出したことに由来します。これを記念して、世界中から多くのムスリムがサウジアラビアのメッカに巡礼を行います。

とはいえ全てのムスリムがメッカまで行けるわけではないので、行けない人は自分の土地でアッラーに犠牲を捧げます。アブラハムのように自分の息子を捧げるわけにはいかないので(しかも毎年)、牛や羊、ラクダなど家畜を捧げます。国によって違うみたいですが、バングラデシュでは一般的にお金がある人は牛(3〜8万タカ = 4.5〜12万円)、牛が買えなければ小さくて安いヤギを捧げます。

 
 

ということで、コルバニー・イードの1週間くらい前になると、バングラデシュの至る所に牛が出現します。

 

運搬するトラック、あるいはトラックからゆっくりと降りて歩いていく牛のせいであらゆる道路が渋滞になります。僕も先週ダッカから任地に帰る時、しっかり牛渋滞に巻き込まれました。

 

街中には昨日まで何もない広場だったはずの場所に突如として牛マーケットが出現します。

 

DSC_1497

 

売られている牛はこうして繋がれているのでまだ良いんですが、買われた後の牛が問題だったりします。

 

DSC_1499

 

こんな感じで人と牛が雑多な感じで混在しちゃいます。死期を悟ったわけではないでしょうが、当然暴れ始める牛もいますし、発情して交尾を始めようとする牛もいるわけです。ベンガル人も牛の扱いがさほど上手いわけでもないので、非常に危ない。憶測ですが、暴れた牛に巻込まれての死亡例が毎年起こっている気がします。犠牲祭の生贄のせいで自分が犠牲になるなんてことが無ければいいんですが…。

 

牛を購入したベンガル人は自宅へ連れて帰ります。いわゆるドナドナです。当然のことながら、こうしてドナドナを拒否する牛も出てきます。その結果また渋滞が起こったりします。

 

DSC_1478

 

連れて帰った牛はイード当日まで自宅前に繋がれるので、街を歩いている時に「あれ、ここ農家だったっけ?」ということがよく起こります。

 

DSC_1519

 

かく言う僕の家も、1階の駐車場がある日突然牛舎になっていました。門を開けたら門番じゃなくて牛がいるのはなかなかの驚きです。

 

DSC_1523

 

こうしてイード当日を迎えるわけですが、その前に疑問が。この牛達、どこから来たんだろうと。バングラデシュには普段こんなにたくさんの牛はいません。

 

まさか…

 

そうです、隣国インドから来ているらしいです。

 

何かがおかしいですね。とてもおかしいです。

 

何を隠そう、インドは大部分がヒンドゥー教徒の国。ヒンドゥー教徒にとって牛は一種の神様です。

 

そうなんですね、インドで神様だったはずの牛がバングラに輸出されてるんです。インド人、神様売っていいの?とツッコミたくなりますが、この資本主義の時代、お金には代えられないんでしょうね。

とにもかくにも、神様である牛は国境を越えた瞬間、他の神様への犠牲用の家畜になるわけです。

隣の国の神様を自分の国の神様に生贄として捧げるバングラデシュ人の気持ちも気になるところです。

 

また職場の同僚に聞いた話ですが、2,3年前の犠牲祭の時、インドからあまりにたくさんの牛が輸出されてきたせいで、市場で供給過剰が起こり市場価格が大暴落したそうです。

 

そうです、神様が市場に過剰供給され、神様の価値が大暴落したんです。

 

こんな感じでツッコミどころ満載の日々を経て、ついにイード当日です。

普段はいつも渋滞している幹線道路も、この日の朝は静まりかえります。

 

DSC_1525

 

朝8時のお祈りの後、ついにジョバイ(アッラーに祈りを捧げながら生贄を捧げる、つまり牛を殺す)が行なわれます。

ジョバイのルールとして、牛は持ち主を含め家族や周辺住民が抑えます。また実際にジョバイする(牛の頸部に刃物を入れる)のは、各コミュニティにいる担当者がいます。たいてい、ムスリムの宗教学校の生徒だったりします。

 

彼がジョバイ担当者。リストを持って複数の家を回ります。すでに1件済ませてきたらしく、ナイフに血が付いています。写真には写っていませんが、白い服にも返り血が付いてたりします。知らない外国人からすると、彼は完全に逃亡中の殺人者です。

 

DSC_1528

 

ジョバイ担当者が来るのを待ちわびる家族。心なしか、牛が悲しそうな目をしているようにも見えます。

 

DSC_1543

 

この先の写真は控えますが、ジョバイが終わった牛は牛の所有者が自分たち自ら綺麗に皮を剥いで、さらにきれいに解体していきます。僕は保健衛生事務所の所長宅にお邪魔してたんですが、彼はさすがお金持ち、大きな牛を2頭買っていたので解体も大変です。お手伝いさんや家族など、総勢10名で昼過ぎまでかけて解体してました。

解体した肉や臓器はもちろん、頭部も含め骨と消化器内容物以外のほぼ全てを食べます。

 

昼前になると剥いだ皮を回収する人が現れ、一軒一軒牛皮を集めて回ります。こうして集められた牛革はどこかしらの工場で靴などの革製品に加工されます。神様は生贄となり、さらには履物になっちゃうわけです。

 
 

こんな感じのコルバニー・イード。側から見ていて感じるのは、本来もっと宗教的な意味があるはずの祭典が、単なるお祭りになっちゃってるなと。でもしょうがないかもしれない。特に中流階級以下の人たちにとっては普段食べられない牛肉orヤギ肉がたくさん食べられるわけですから。さらに言えば、日本も同じですよね。クリスマスしかり、正月しかり。今の時代、多くの国がこうした現実を抱えているのかもしれません。

 
 

一方で、この祭りが果たしている意義も大きいように思います。

 

まず一つは、自分たちが口にしている食肉がどのようにして得られているかを学ぶ貴重な場であるということ。多くの日本人にとって、肉というとスーパーできれいにパッケージングされたものを思い浮かべてしまい、ついついそれが尊い命であったことを忘れてしまいがちです。こうして自分たちで牛をつぶして、命を頂くということを身を持って経験する。今の日本人に足りていない経験かもしれませんね。牛を殺すというと残酷なようにも思えますが、もしかすると自分たちが他の命を口にしているということを考えなくても済んでしまう僕ら日本人の方が残酷なのかもしれません。

 

また、こうして得られた肉が貧しい人たちにも配られるということ。イスラム教の教えで喜捨という言葉がありますが(正確に言えば仏教用語らしいですが)、これが貧しい人に自分の財産を分け与えるというもの。このコルバニー・イードにおいても、牛の3分の1は自分たちで消費し、3分の1は親しい人に配り、3分の1は貧しい人に分け与えます。

 

僕の街でも、こうしてモスクに集めた肉を計りを使ってきちんと重さを計り、貧しい人たちに公平に配っていました。

 

DSC_1605

 

こうした寄付文化のようなものは、イスラム・キリスト教国と比較して日本が圧倒的に不足しているものかと思います。

生活保護などの行政サービスだけではなく、こういった地域コミュニティの中で支え合う方法から学ぶ点は多いのかもしれません。

 
 

また、単なる祭りとして形骸化していると上で書きましたが、祭りは祭りとして家族が故郷で集まっているのも事実です。日本では正月も盆も仕事だったり旅行に行っちゃったりしますが、バングラデシュでは普段忙しい人も多くが故郷へ里帰りします。たった1日でも、わざわざ帰ったりします。そうして家族が集まり、みんなで料理をして食事を楽しむ姿は、かつての日本にあり今の日本が無くしてしまったものかもしれません。

 

そうやって考えていくと、このコルバニー・イードがバングラデシュ社会の中で果たしている役割は想像以上に大きいのかもしれませんね。

 
 

【余談】

 

牛市場では当然売れ残る牛もいるわけです。売れ残りがどうなるのか気になって聞いてみたところ、一部は再びインドへ帰っていくそうです。つまり、神様は生贄となり、売れ残りの生贄はまた神様になるわけです。そしてまた来年、生贄候補としてバングラデシュに帰ってくるんでしょう。牛も大変ですね。

 

また今年くらいから、牛の輸出がインド側で制限され始めているようです。神様だから大事にしようということなのか、神様だから市場価格の暴落を下げようとしているのか、インド人の本心は明らかではありません。

誰の、誰による、誰のための開発?

 

バングラは明日からコルバニーイード(犠牲祭:イスラム教のお祭り。また後日詳しく書きます)の連休ということで、連休前日の今日は多くのベンガル人がザワザワして落ち着きがありません。

また、本来であればそろそろ雨季の終盤のはずなんですが、そんな様子を微塵も感じさせないほどここ数日大雨。

ということで、今日は自宅待機という名の自主休業ということにして、久しぶりに家でゆっくり読書やら考え事やらしてます。

 

 

数年前にどこかの座談会か何かで聞いた話をふと思い出したんですが、

その彼女はNGOを立ち上げてラオスの農村部を対象に数年かけて保健関係の活動をしたそうで。自らも村の中に住み込んで、できるだけ村人と同じ目線で、同じ生活環境を共有するようにして。で、数年経って目に見えるような成果が出てきて。少しずつ余裕が出てきたこともあって、その対象の村だけではなく近隣の他の村も含めて一歩引いた視点に立って広く全体を見てみたそうで。

他の村と自分の村を比較することで、自分のここ数年の成果がよりクリアに見えることを彼女は期待していたそうですが、いざ他の村に目を移した時に感じたことは全く逆だったそうで。

自分が尽力した村と比較して、他の村は衛生環境も良くないし、下痢などの病気も多い、産科系の問題も多い。確かに、彼女の活動は実を結んでいる。けれど、そうした問題を抱えた村でも、間違いなく村の中でサイクルは回っている。いくら病気が多いといっても、人口が減るわけでもない。

自分の村が幸福の村で、他の村が絶望の村。そんなことを期待していたわけではないけれど、思いの外、違いがなかったと。もう少し正確に言えば、自分が数年かけて尽力したことに、どれほど価値があったのか分からなくなったと。

 

人間の安全保障という観点で捉えれば彼女の抱いた思いは少しばかり間違っていて、彼女の活動は間違いなくその村に成果をもたらしたのだろう。だから、そう悲観的に捉えることはない、と彼女に伝えることもできるだろう。

だけど、実際に末端のフィールドレベルで多くの時間と経験を共有した彼女が語るその”無力感”には、大きな説得力があった。

 

 

もう一つ別の、僕自身が体験した話。

 

今年3月、アフリカ東部のソマリランドという国を訪れた。日程や予算の問題もあってわずか3日で隣国エチオピアに戻ってしまったのだけど、その間に見たこと、聞いたことは大きな驚きだった。

 

ソマリランド共和国。1991年にソマリアからの分離・再独立を宣言。憲法や議会などを持ち、独立国家として完全な能力を有していると言われながら、日本やアフリカ連合を含む国際社会は未だに独立国として承認しておらず、ソマリアの一部と見なされている。(この背景としては、多くのアフリカ諸国が自国内に抱える民族独立運動の好例を与えてしまうことで運動が活性化することを恐れていることが一つ。詳細は割愛。)

国家として承認されていないため、ソマリランドは国際社会からの援助を全く受けられていない。天然資源は埋蔵が確認されているらしいが、現状採掘には取りかかれていない。特にこれといった産業もなく、畜産などの一次産業が中心。

 

そんな国だから、国の内情はさぞかし酷いんだろうと思って入国したが、首都に着いてまず驚いたのは街がすごく綺麗。ゴミが全然落ちていない。

ソマリランド人と話してまた驚いたのは、彼らの自国に対する誇り。単なる愛国心ではなく、自分たちの手でこの国を作り上げてきたという強烈な自負を持っている。だから道端にゴミを捨てることもなく、街中は当然綺麗に保たれる。

たいていの途上国では自国政府に対する不満を持つ人も多い。政府が悪いから、政府がやってくれないから。そんな言葉をよく聞く。けれどソマリランドではそんな言葉は一度も聞かなかった。政府と国民が一枚岩になって前に進んでいるような印象だった。

他国の援助に頼れない分、24年かけて安定したインフラ、汚職のない警察・軍、そしてゆっくりではあるが確実な経済成長を成し遂げてきたソマリランド。

 

対して、ここバングラデシュはどうだろう。多くの海外ドナーが入り込み、急速な経済成長が進んでいるように見える反面、開発という言葉の裏では国際社会の色んな思惑が渦巻いている。日系を含む海外企業も多数進出しており、多くのバングラ人が使い捨ての労働力として消費されている。警察も軍も、多くの政府系機関でも汚職が横行。

バングラ人自身も国内の多くの問題を認識はしているものの、「ここはバングラだからしょうがない」の一言で済ましてしまう。何かトラブルがあれば、政府(あるいは神様)のせいにする。

バングラ人が悪いと言っているのではなく、そりゃそうなるでしょうよ、ということ。自分たちが頑張る前に、良く分からないうちに海外から良く分からない人たちが入ってきて、良く分からないけどとりあえず良さ気な感じのことをしてくれてきたんだもの。自国の経済レベルや成長スピードを大きく超えた”援助”が大量に流れ込んでくれば、政治家だって道を誤るだろうし、国民だって誰か自分以外の何かに期待したくなる。

 

 

全然異なる二つの話だけれど、共通して僕に問いかけてくるのは「開発における国際社会の介入の必要性」。

 

僕らが良かれと思ってやることは、大きなお世話になってないだろうか。

確実な成果があったとして、果たしてその成果は必要なものなのだろうか。

一見して良い成果を生んでいるように見えて、その裏でそれ以上の問題を生んでいないだろうか。

 

よそ者が勝手に入ってきて、勝手に開発を進めて、勝手に問題を生んで、その問題をまた勝手に解決しようとする。

そんなことは、絶対にあってはならない”はず”。

 

国の発展はその国の国民が担うべき。そんな当たり前のことが、何より難しいのかもしれない。

せっかく協力隊で来ている以上、そういう地味だけど普遍的なことを大切にしないと。

 

DSC_0086

*ソマリランドの首都ハルゲイザの中心部。警察官(右)は真面目に交通整理、ドライバーの運転マナーも良い。道にはゴミが落ちてない。

 

 

何しに来たんだっけ?

  

バングラデシュに来てもうすぐ3ヶ月。任地コミラに来てからは2ヶ月。

 

今までの海外が常に短期での渡航だった僕にとって、1ヶ月を超える滞在は未知なものでした。

 

しかし住んでしまえば何てこともない、ゲストハウス住まいの短期渡航とは違って自分の家があるという安心感も手伝って、ここまでは大きな不自由もなく過ごしています。

 

一方でベンガル語レベルは相変わらず低いまま。僕の職種柄、活動関係者には医者をはじめ医療のバックグラウンドを持っていたり、あるいは修士や博士まで出ているいわゆるエリート層が多いこともあり、わりと英語が通じちゃう。

 

これが良くないんですね。困ったら英語に逃げれちゃうもんだから、ベンガル語が伸びない。

しかも都合良くベンガル語の文法の中に英単語入れて話したりするもんだから、だんだん自分が何語話してるか分からなくなってきて肝心の英語力まで低下してくる始末。

 

そんなことしてるから、地方に行って(ほぼ毎日行ってます)田舎の村人と話す時苦労してます。

活動関係の話なら単語もある程度分かるし、分からなくても推測できますが、何より雑談が一番苦手。単語力が圧倒的に足りないのに加えて、ヒアリングも一般的なベンガル人の会話スピードに耳が慣れてないもんだから、全然話が理解できない。

 

でも雑談ができないと関係性が深まらないんですね。「日本から来た偉い人」っていう認識のされ方をなかなか抜け出せなくて、「同じ立場に立って物事を考えてくれる人」になれない。

 

そんなこんなで自分の中にもたくさん問題があることを認識しつつ、そうした自分の問題を棚に上げて、自分は何しに協力隊に来たんだろうと考えていたり。

 

僕は今までアフリカ中心に渡航してきたこともあり、希望国は全て西〜中央アフリカで出しました。

 

そうした背景もあって、自分の中でのもともとの協力隊のイメージというのは、何もフィールドで砂埃にまみれながら、JICAって何かよう分からんけどとりあえずこいつは良い奴だなと思われながら、村人と一緒にあーでもないこーでもないと言って共に失敗しながら何かしら小さなものでもいいから生み出せれば、といったもの。

 

これまでの途上国での活動の中で、「日本から来た偉い人」「すごい人」と認識されることにすごく抵抗があって、もっともっとフィールドで同じ目線に立ちたくて。そういう風に認識してもらいたくて。

現場の声を無視した政治的なきな臭さが拭えない国際協力や、国民ではなく政府関係者の顔色を伺いながらの国際社会のあり方に大きな疑問を抱いて。

開発とか人間の安全保障とか国際保健医療とか、そういったことを教科書的に学んでもピンと来なくて。何か大切なものを置き去ってしまいそうな気がして。

 

だからそういった小難しいことを一旦置いて、自分の目の前の人にとって大切なものは何か、自分ができることは何なのか、そんなことを考えたくて、そんなことをしたくて協力隊を志望した。

 

だけど現状は全く違うもので。朝早くからフィールドに出掛けてはいるものの、やっていることと言えばWHOやUNICEFなどの国際機関が関わる国際事業、予防接種拡大計画の一端を担うもの。要請内容から色々とはみ出してみたりはしているものの、結局は既存の枠組みから抜け出せていない。

学校保健や環境教育にも手を出し始めてはいるものの、これもまた中途半端。

じゃあ夜はというと、6階建アパートの最上階にある自室で人間の安全保障とかMDGsのこととか考えていたり。

 

バングラという国は、国際協力に関して世界の縮図だという話を何度か聞いた。確かに官民問わず数多くの名だたるドナーがバングラに入ってきていて、国際社会の色んな思惑が渦巻く中で開発が進んでいる。先進国の利益追求によって、耐えられないほどの環境汚染が起きているのも典型的。

 

バングラに住んでいると、良くも悪くも開発に関して学ぶ機会が溢れている。

 

そういった環境の中で(そのせいにしたくはないけれど)、結局自分がやっていることは日本にいる時とあまり変わらないなと思う。現場に根付く、草の根って想像以上に難しい。

 

冒頭に書いたように、「大きな不自由なく」生活してきた3ヶ月。あと1年9ヶ月を如何に過ごすか考えないといけない。

 

DSC_0424

 

【ひとりごと】

生活レベルを下げる、って本当に難しい。身をもって感じている。

任地での生活も2週間が過ぎました。

  

任地コミラに来て2週間。

ようやく家も決まり生活が落ち着いてきました。

 

赴任以降いろんな出来事やトラブルがありました。

 

一度入居が決まりかけた家の大家と最終契約段階まで来てトラブルがあり、

既に搬入していたベッドや机など全て持って引っ越しして、

 

DSC_0032

 

チャドカン(道端の露店)で働く子どもに毎朝ゴミ問題と公衆衛生について話をして、

 

DSC_0372

 

配属先であるコミラ県保健衛生事務所の月例会議に出席してみると、

 

DSC_0640

 

ベンガル人同士の早口ベンガル語対決が繰り広げられ、

ほとんど理解できずにいるのを知ってか知らずか、途中でコメントを求められたり。

 

 

ちなみに配属先はこんな所。

 

http://app.dghs.gov.bd/localhealthBulletin2015/publish/publish.php?org=10000863&year=2015

 

 

せっかくの機会なので、僕が活動上関わる(可能性がある)人たちを簡単に紹介します。

 

事務所スタッフが約20人、これと別に僕の担当セクターであるEPI(予防接種拡大計画)スタッフ、

 

DSC_0609

 

さらにはHealth Education OfficerやSanitary Inspectorなどの他セクター担当者。

 

また敷地内にはGeneral Hospitalが併設され、ドクターや看護師、検査技師などの病院スタッフが数十人。

 

DSC_0678

 

 

EPI事業に話を戻すと、コミラは非常に大きな県(ジェラ)で16もの郡(ウポジェラ)を持ちますが、その全てのウポジェラに

UH&FPOと呼ばれる郡病院長、

MT-EPIと呼ばれるEPI責任者、

接種場所の巡回・指導などのフィールドワークを行うHIと呼ばれる人たちがいます。

 

また、EPIは1974年にWHOが始めた国際的な事業なので

ここバングラデシュでのEPI事業にもWHOスタッフ、さらにはGAVIアライアンスなどの国際組織が関わっており、

彼らも僕にとっては重要なキーパーソンです。

 

こうやって書いただけで色んな登場人物がいましたが、

実際の接種場所で働く人やポーターなどを含めると、コミラだけで3000人近くが関わる巨大プログラムです。

 

2年の任期の中で僕が果たすべき役割は何なのか、そのために彼らと如何に関わっていくのか、

これからゆっくり考えていきたいと思います。

 

 

そんな感じでバングラの喧騒に飲み込まれそうな中、

先週末は同期のコミラ隊員とコミラ随一(唯一?)の観光名所、モイナモティ遺跡へ。

 

DSC_0717

 

感想は特に無し。笑

 

看板などの説明資料が全くなかったのでよく分からず。

 

DSC_0721

 

遺跡全体としては非常に大きなもので、今回行けたのはその一部だけみたいなので、他の所にまた行ってみます。

 

DSC_0766

 

カテゴリー:Bangladesh, JOCV, タグ: , , , ,

バングラ生活が始まりました。

 

バングラに着いてもうすぐ1ヶ月。元気にやってます。

 
 

こちらは熱帯モンスーンの雨期ということで、蒸し暑い雨の日々。

 

昨日まで道だったところが今日は川だったり。

DSC_0389

 

アフリカの暑さとは一味違う、久しぶりのアジアの暑さ。何だか懐かしい感じ。

DSC_0259

 

気を抜くと3食全てがカレーorスパイシーな何かになりかねない。

DSC_0398

 

人と車で溢れる旧市街と

DSC_0323

 

突如現れるゾウ(ウシやウマもしばしば)。

DSC_0376

 

ホットでスパイシーなこの国を汗かきながら五感で満喫しています。

 

そんな暑さにも関わらず、先週まで続いていたラマダーン期間中、
敬虔なムスリム達は日中は水すら口にしない。

 

死んでまうわ、と思うかもしれませんが、本当に死者も出てるようで。

 

 

ダッカ研修中だったこの1ヶ月、少しずつではあるけれど、この国の抱える問題と可能性が見えてきた気がします。

DSC_0371

DSC_0041 (1)

DSC_0074

 

 

今週で首都ダッカでの研修は終わり。

来週からはついに任地コミラへ移動します。

 

バングラでの日常の発見と気付きを、これから少しずつお届けしていけたらと思います。

11751433_858469147570580_9085741909945069617_n (1)