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Archive for the ‘貧困、不平等’ Category

同じ目線には立てない

 

「生活レベルが下がるってのは、今まで贅沢だと思っていたことができなくなるのではなくて、今まで当たり前だと思っていたことが贅沢になること。」

 

 

 

数年前に聞いて、以来ずっと心に残っている言葉。
圧倒的に恵まれた日本の環境で育ってきた僕にとって、生活レベルが低いということを具体的に想像することは難しかった。

 

ザンビアでの生活が始まって4ヶ月。
協力隊の本質の一つは、現地のコミュニティの中で、彼らと同じ生活レベルで2年間を過ごすということ。これは他の枠組みの海外派遣ではなかなか得難い経験であり、僕が協力隊を志望した理由の一つでもある。

 

僕が現在住んでいるのは南部州の州都チョマから35kmほど離れた農村地帯。幸いなことにローカルマーケットが近くにあり、果物は無いものの野菜類ならすぐ手に入る環境。肉類を扱う店もあり(牛、鶏、インパラのどれか1種類しか置いてないが)、小さな飲み屋も2軒ほどある。

僕の家には電気・水道が通っているが、停電は毎日のように起こり、断水も頻繁。井戸から水を汲む生活が当たり前。家の前にはブロックと石でかまどを作り、炭と拾ってきた木で火を起こす。冷蔵庫やテレビはもちろん無く、家にあるもので家具と呼べるのは小さな机と椅子、ベッド、一口の電気コンロくらい。朝と昼は適当に自炊し、夜は隣の大家の家で毎晩ご馳走になっている。

 

こうして書くとそれなりに途上国っぽい生活をしているようにも思えるが、やはり決定的に違う部分もある。

パソコン、インターネットはやっぱり手放せない。一眼レフも大切。音質の良いSONYのウォークマンとイヤホン。
そうした点では日本と大して変わらない生活をしていることもあり、生活は非常に楽。ここで2年間生活することは何の問題もない。同じことは、去年バングラデシュで4ヶ月過ごした時にも感じた。

少なからず生活レベルは下がっているのかもしれないが、それも2年間という期限つきだから気にならないのだと思う。あと1年もすれば、停電も断水もなく、綺麗で高品質のものすぐに手に入り、WiFiが早くて電化製品に囲まれた日本の生活に戻れる。仮にこの環境でこの生活を10年、20年、あるいは50年続ける予定だとしたら、もっともっと色んなことがストレスに感じるのかもしれない。あるいは、腹をくくってもっと適応できるのか?

 

 

色んな途上国を自分の足で回り、自分の目で見て、自分の肌で感じてきた。自分に何ができるんだろうと思いを巡らせながら、色んな角度から活動をしてきた。だけどその全てにおいて、自分が所詮”外国人”だというある種のコンプレックスを感じてきた。
いくら日本で学んでも、途上国を一時見て回っても、僕が住むのは先進国。先進国の人間である自分に途上国のことは絶対に分からない、同じ目線には絶対に立てないと思っていた。
だから、協力隊。途上国の環境に2年間住むことで、彼らと生活を共有することで、何か見えるものがあると思った。

 

協力隊任期の折り返しを迎える今感じることは、やっぱり僕は”外国人”だということ。
アフリカの全てが楽しい。一方で、生活も言葉も食事も文化も全て、一番自分に合うのは日本だと分かった。
そして、途上国の人々と想いや感情を共有することはできても、彼らの背負っているものを同じように背負うことはできないと感じた。中途半端な共感は、むしろ”外国人”である自分の違和を強めることにもなる。

 

同じ目線で物事を見ようとすることは非常に大切。
だけどそれと同じくらい、全く同じ目線には立てないという前提からスタートすることも大切なのかもしれない。

 

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HIV/AIDS対策の現状と新たな問題

 

 

1996年のUNAIDS(Joint United Nations Programme on HIV/AIDS)発足以来、約20年に渡って国際社会はHIV/AIDS対策を積極的に進めてきた。2002年には「世界エイズ・結核・マラリア対策基金」が創設され、その流れはさらに加速した。最近になって潮目が変わってきた感もあるが、少なくとも国際協力あるいは国際保健医療の世界においてHIV/AIDS対策は近年の大きな”トレンド”の一つである。

そのHIV/AIDSが最も深刻となっている地域が南部アフリカである。私が現在生活するザンビアも例外ではなく、保健分野に日頃から関わっている身としては、非常に身近かつ喫緊の課題である。

今回はそうしたHIV/AIDSを取り巻く世界の状況を、ザンビアでの実例を交えながら紹介する。前半ではHIV/AIDSについての基本的事項、後半では世界が抱える問題について触れる。

 

【HIVの疫学】

 

HIV陽性者は世界で3700万人とされている。総人口を73億人とすると、地球上の人間の約0.5%、200人に1人の割合でHIVに感染していることになる。

数十年前まではなかった病気が現在これほどまでに広がっていること自体大いに驚きだが、アフリカの現状はそれよりひどい。HIV感染率の国別ランキングでは、上位24カ国を全てアフリカ諸国が占める。さらに言えば上位9カ国は全て南部アフリカの国々であり、1位スワジランドに至っては27.7%、4人に1人以上の割合でHIVに感染していることになる。南部アフリカに位置するザンビアは、他国の例に漏れず12.4%で7位にランクインしてしまっている。

HIVの新規感染者は世界で毎年約200万人、死亡者は120万人とされている。抗HIV薬へのアクセスが容易になったことで死亡者が減少し(未だ多いが)、死亡者数より新規感染者数が非常に多くなっている。つまり、HIV感染者数は年々増え続けている。後から触れるが、これは将来に渡って非常に危惧されるべき事実である。

 

【ザンビアのHIV/AIDS事情と関連ドナー】

 

ザンビアにおける死因の第1位はHIV/AIDSである。2012年には死因の4分の1がHIV/AIDS関連疾患によって占められ、実に約36,000人が亡くなっている。人口あたりのHIV/AIDS死亡者数は2000年と比較して約3分の1にまで減少しており、他国と同様に抗HIV薬の普及で状況は改善傾向にある。一方で、死因の2位と3位にランクインする呼吸器疾患とマラリアによる死亡者数はそれぞれ約1万人。HIV/AIDSの3分の1以下である。このことから、HIV/AIDSがどれだけこの国において大きな問題を引き起こしているかが理解して頂けるかと思う。

しかし冒頭で述べたようにHIV/AIDSが世界の援助の”トレンド”であり、かつアフリカ南部のザンビアが”ホット”な地域ということで、UNAIDSをはじめとしてHIV/AIDS関連のドナーは多く、その援助額も非常に大きい。そのおかげもあり、ザンビア国内のHIV/AIDSを取り巻く状況は、他の疾患のそれと比較して非常に良い。検査キットや抗HIV薬は末端の一次医療施設まで概ね十分に行き渡っている。

 

【HIV/AIDS治療の現状】

 

現在ではいくつかの抗HIV薬が開発されており、それらの併用がHIVに対して非常に有効である。だが、それら抗HIV薬は決して体内のHIVを完全に死滅させるわけではない。ウイルスの活動を抑制し、進行を防ぐだけである。言い換えれば、HIV/AIDSはコントロールできる病気にはなったが、未だ”治す”ことはできない。つまり、HIV/AIDS患者は抗HIV薬を一生飲み続けなければならない。

 

【HIV/AIDSの新たな問題】

 

以上がHIV/AIDSを取り巻く基本的な現状である。続いて、問題点にフォーカスしていく。

 

【援助の偏り】

上述の通り、HIV/AIDSに重点を置いた援助を行うドナーが多い。裏を返せば、他の疾患や一般衛生に対する援助は比して劣っているとも言える。

実際、ザンビアの医療現場においてHIV検査キットや抗HIV薬が数多く並ぶ一方で、他の簡単な薬や機材、試薬が不足するという事態は至る所で見受けられる。医学的、社会的、経済的など多くの側面から見て、HIV/AIDSは確かに最重要課題の一つである。しかし、その傍らで他の基礎的な要因が十分に満たされない現状は、少なからず再考する余地があるように思われる。少なくとも、多くの援助を集めるHIV/AIDSすらも現状は良好とは言えず、以下のような問題点を抱えている。

 

【高額な医療費】

1つ目。HIV/AIDS治療は非常に高額である。

薬の種類にもよるが、抗HIV薬をまともに飲むと患者1人あたり年間数万円~数十万円の薬代がかかる。近年ではジェネリック薬が広く利用可能になったが(これに関しても多くの問題があるが)、それでも数千円はかかる。日本のように医療保険制度がある程度整った先進国であればまだしも、多くの場合は途上国の人々がこれだけの薬代を自ら捻出するのは不可能である。そのため、ザンビアを含めたそうした地域では、政府あるいは海外ドナーがその予算を負担している場合が多い。

ザンビアにおいては、高度医療を除いて基本的な医療は全て無償化されている。医療の無償化というと聞こえはいいが、実際には財源不足による人手不足や薬品不足が頻発している。

(これなら、多少なりとも医療費を徴収してサービスを充実させた方がよっぽど良いと思うことは多々あるし、実際の現場レベルでは登録料や寄付などの形で少なからずお金を徴収している場合がほとんどである)

しかし、抗HIV薬が不足することはほとんどない。多くの援助がHIV/AIDSに集中しているためである。上述したように抗HIV薬は非常に高額であるが、他方、多くの途上国において死因の最上位を占めるマラリアや肺炎、下痢症などは数十~数百円程度で治せてしまうものが多く、ワクチンなどによる予防の場合はさらに安価である。言い換えれば、安価な薬や医療にアクセスできないために亡くなってしまう人が非常に多いのが実情である。

高額な抗HIV薬が充足する反面、他の基本的な医療品が足りないという状況には、少なからず違和感を感じざるを得ない。

 

【一生涯続く治療】

2つ目。HIV/AIDS治療は一生続く。

現状ではHIV/AIDSを完治させることはできない。薬にアクセスできたからと言って患者が治るわけではなく、一生服薬を続けなければならない。

【HIVの疫学】の項で触れたが、HIV/AIDS患者は年々増え続けている。国際社会はHIV/AIDSの新規感染防止に躍起になっているが、何が効果的なアプローチかという点については未だ議論が残るところであり、一部の地域を除いて新規感染例を劇的に減少させることはできていない。既存のHIV/AIDS患者の完治、そして新規感染予防における大幅な改善が達成されない限り、HIV/AIDS患者数は今後も際限なく増えていく。つまり、医療費も無限に増え続ける。

 

【危機意識の低下】

3つ目、HIV/AIDSに対する危機意識の低下。

繰り返しになるが、現代においてHIV/AIDSは死なない病気になった。多くの援助の甲斐もあり、ザンビアの例のように限りなくゼロに近い負担で治療にアクセスできる場合もある。直接的な生命のリスクといった観点からすれば、HIV/AIDSのリスクが大幅に下がったのは事実である(HIV/AIDSは決して医学的側面だけで語れるものではなく、社会的スティグマ(恥辱)、差別、偏見など多くの社会的要因も関わってくるが)。しかしその結果、HIV/AIDSに対する危機感が低下するという好ましくない状況が起きている。

ザンビアにおいても未避妊の性行為が増えたり、あるいは売春などの性産業も増えているように思われる。多くの途上国においてFamily Planning(家族計画)は重要な開発課題の一つであるが、未避妊の性行為は当然ながら望まない妊娠に繋がりうる。性産業の拡大も懸念されるべきことではあるが、HIVに感染しても死なずに済み、かつ治療費も無料となれば、今日や明日の生計を立てるための性産業への従事が貧困層の間で増えるのは自然なことなのであろう。

不治の病であったHIV/AIDSに対する多剤併用療法の有効性が示されて約20年。人間は”医学的”にHIVと共存できるようになった。それと並行して、HIV患者が”社会的”にも生きていけるように、多くの人がスティグマ、差別、偏見と戦ってきた。こうした事実は本来であれば大きな前進であったはずが、非常に残念ながら、いつの間にか新たな問題へと繋がってしまっている。

 

【迫り来る脅威】

4つ目。耐性株の出現と新薬開発の停滞

HIV/AIDS治療薬のコストダウンあるいは無料化は、(社会要因により薬へアクセスできないケースは未だ多く残るが)

経済状況を問わず広く多くの人々の薬へのアクセスを可能にした。このプロセス自体はもちろん大いに価値あるものであるが、その反面、”薬そのものの価値”は下がることになった。結果として、大きく2つの状況が新しく生まれている。

一つは、薬を適当に飲む人数の絶対数が増えたということ。数種類の薬を毎日、生涯に渡って飲み続けるというのは当然患者にとって大きな負担であり面倒である。よって、服用を時々忘れたり、途中で服用をやめてしまう人は常に一定の割合で存在する。単純に薬にアクセスできる人が増えたということは、それに伴って服用が適切に行われないケースも増える。

もう一つは、薬が無料でもらえてしまうことでそのありがたみが薄れてしまい、服用が適切に行われない割合すらも増えてしまうということ。もっと悪い場合、無料でもらった薬を、薬が無料ではない地域で転売して生活費を稼ぐといったことが起こる。幸いにして抗HIV薬でこのケースは未だ聞いたことがないが、発熱を訴えるだけで何の検査もなく抗マラリア薬が無料で配布されていた地域ではこうした事例が発生しており、抗HIV薬においても類似の状況は起こり得る。

HIVに限った話ではないが、このような不適切な薬の服用は耐性株の出現に繋がる。長い年月と開発費を費やしてようやく完成した既存の抗HIV薬が仮に効かなくなると、現在のHIV/AIDS対策は大きな見直しを強いられることになる。

また、抗HIVのジェネリック薬が現在既に出回っており、これが抗HIV薬を無料化できる大きな要因の一つである。しかしこのジェネリック薬の流通に至るプロセスは、他のジェネリック薬とは大きく異なるものであった。詳細はここでは割愛したいが、新薬の開発というのは数十億円規模(あるいはそれ以上)の莫大な資金がかかる。この開発費用を回収し製薬会社の利権を守るために、20年間は特許期間としてジェネリック薬の製造は原則できないことになっている。

しかし、HIVの場合はその社会的影響の大きさと、貧困層への感染拡大などを背景として、国際社会で大きなムーブメントが起こり、結果として非常に早い段階でジェネリック医薬品が出回ることになった。そのため多くの患者が薬にアクセスできるようになった反面、製薬会社は開発費用を十分に回収することができなかった。こうした歴史的背景もあり、仮に新たな抗HIV薬を作ったとしても開発費用が回収できないことが予想されるため、現在ではHIVの新薬開発には多くの製薬会社が消極的にならざるを得ない状況である。

つまり、既存の抗HIV薬が効かない耐性株の出現リスクが非常に高まっているにも関わらず、それに代わる新薬が開発される見込み、さらにはそれが開発後すぐに安価な価格で出回る見込みは非常に低いのである。これはHIV/AIDSが現場において潜在的に抱える最も大きな問題の一つかもしれない。

 

【個人のケアと集団の予防】

 

HIV/AIDSに対する国際社会の積極的な取り組みとその成果、一方で患者が未だ増え続けている現場と将来見込まれる危機、さらにはHIV/AIDSに限らず他の疾患等への取り組みにも影響を与えうる懸念について書いてきた。

HIV/AIDS対策は確実に前進している。しかし、その裏で新たな問題が生まれてきているのも事実。従来の戦略だけでは、近い将来HIV/AIDS対策は完全に破綻してしまう。考えたくないことではあるが、仮に既存の抗HIV薬に対する耐性株が拡大し、増え続けるHIV/AIDS関連予算が限界を超え、製薬会社も新薬を作らない、といった事態が生じた場合、HIV/AIDSを取り巻く状況は過去最悪の展開を迎えるであろう。

これは現在のHIV/AIDS対策への批判ではない。HIV/AIDSが我々にもたらす社会的負担の大きさを強調しているのでもない。私がここで述べているのは、個人の健康を守ることと、集団の健康を守ることは分けて考える必要があり、現時点においてはその両者の達成度の間に大きな差があるということである。HIV/AIDS患者個人の健康を守ることは可能になったが、他方、集団の健康を(予防的に)守ることが困難になりつつあり、このままでは今後の展望も決して明るくはない。国際社会がHIV/AIDSに注視する裏では、他の基本的疾患へのケアが疎かとなっていないかということも常に考えなければならない。

多額の資金投入と、バラマキとも言える薬の無料化が進められてきたHIV/AIDS対策。一時的な状況の好転こそ見られたものの、問題の本質的な解決にはまだ程遠く、さらに我々は新たな問題にも直面している。

 

 

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ピースとハイライト

 

この前の大晦日、久しぶりに紅白歌合戦を見た。
何気なく見ていたらサザンオールスターズが出てきて、桑田さんがチョビ髭つけて映ってた。
その時点では何とも思わなかったんだけど、1曲目が始まってその歌詞に驚いた。

「ピースとハイライト」

非常に大きな感銘を受けると同時に、よくこんな曲をNHKで歌えたなと思ったけども、
本番直前まで出演に関して揉めていたという話を聞いて納得。

チョビ髭が何を意味するかもよく分かった。

〜〜〜
都合のいい大義名分(かいしゃく)で争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?
燻る火種が燃え上がるだけ
〜〜〜

 

曲をもう一度聞こうと思ってYoutubeでPVを見てまた驚いた。

安倍首相やオバマ大統領、さらには朴大統領のお面まで登場してる。

 

こういった曲を発表して、さらには30年以上振りの紅白出演に引っ提げてくるサザンオールスターズ、
さらにはこれを放送したNHKの英断は本当にすばらしいと思う。

アイドルやらジャニーズばかりがランキング上位を占める日本の音楽業界だからこそ、
こういった社会問題に対して強烈なメッセージを突きつけるこういった曲は評価されるべき。

 

今回のサザンの曲で思い出されるのは、

ミスチルの「タガタメ」

だったり、

John Lennonの「Imagine」

あるいは少し毛色は違うけどLady GaGaの「born this way」

 

特定の時代で多くの人に評価される”普遍性”もいいけど、
こういった曲のように時代を超えてあらゆる世代に通ずる”普遍性”を大切にしたいと思う。

あるいは、こういった曲が歌われなくても済むような時代が来れば本当に良い。

 

【ひとりごと】

このすばらしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?
愛することを躊躇(ためら)わないで

〜ピースとハイライト〜

路上生活は誰にでも起こりえる身近な出来事である

少し前の記事ですが、HUFF POSTから。

 

「この動画を見たら、ホームレスの人々について考え直すようになる」

http://www.huffingtonpost.jp/2014/08/05/this-video-will-change-the-way-you-think-about-homeless-people_n_5653220.html?utm_hp_ref=japan-society

 

このことは、日本を含む先進国において広く共通して言えることだと思う。以前、日本の路上生活者支援に関わっていたけども、路上生活者は何も特別な人ではないことは明らかである。道端で寝ている路上生活者と、彼らの脇を通り過ぎるサラリーマンの間に何ら本質的な違いはない。
日本における路上生活者の多くは、「生まれつきの路上生活者」ではない。少なくとも、路上生活者同士の間で子供を授かり、新たに「路上生活者が産まれる」ことはほぼ無い。

では、如何にして「路上生活者が生まれる」のか。

病気(身体的あるいは精神的、その両方)、怪我、リストラ、倒産、離婚など、誰にでも起こりえる出来事による場合が多い。

社会保障が発展している日本においては、上記の出来事の一つや二つであれば生活が大きく傾くことは少ないかもしれない。しかし、こうした出来事は度々連鎖して同時に起こり、そうした場合は生活が激変する場合もある。僕の知り合いの例を挙げてみる。国立大学を卒業し、中堅企業に就職、真面目に仕事を続け、結婚もして子供にも恵まれていた40代男性。しかし社会での異動を機に、新しい上司に目を付けられ毎日怒鳴られ続けた結果、うつ病に。会社に行けなくなり解雇され、家庭も上手くいかなくなり離婚。子供は母方に引き取られ、やがて本人は路上生活を余儀なくされた。どこにでもいる普通のサラリーマンだったはずが、わずか1年後には路上で生活することに。そうしたことが、実際に起こる。誰にでも起こる。

路上で生活する人を自分とは遠い違う存在のように感じている人も多いが、彼らを好奇の目で見ることは決して正しいことではない。いま住んでいるのが住居か路上かの違いだけであって、本質的には何の違いも無い。

 

P.S.

記事中の「かつて、すばらしい人生を送っていたかも」という記述はあまり好きではない。路上生活が「すばらしくない人生」だなんて他人が勝手に決めていいものではない。

 

偏っていい。偏ったままであればいい。

 

メディアを考えるシリーズ、第2弾。
今回は、日本メディアがダブルスタンダードに陥っている、ということについて。

 

例えば、人種的差別や偏見に基づいた事件が海外で起きた場合はすぐ報じるけども、国内で起きた場合はそれに比べて報道されていない。日本のことも海外のことも同じ尺度で測り、報道として扱うべき。
そして同時に、日本国内の暗い面を隠す傾向にあると思う。日本の貧困問題について先日のブログで書いたけども、これは本当に深刻な問題。これを報道しないのは、ジャーナリズムの機能不全と言わざるを得ない。

 

 

それから、勘違いされたくないのは、僕は別に傾向報道を一概に否定しているわけではない。傾向報道でも構わない。けど、そうであるならば徹底してそうあるべきだと思う。一定の価値観と基準に基づいて、固有のスタンダードを持つべき。海外メディアもそれぞれ多様な個性を持っているけども、スタンダードはきちんと固まっているから、社会からもそのメディアのスタンダードはそういうものなんだと正しく認識されている。あたかも平等で中立公正のようなスタンスでそれをするから問題なんだと思う。

 

世界中、どの社会も偏見を持っている。これは日本に限った話ではないし、そうあるものなのだと思う。だけど、メディアがそういう観点から報道しないことは大きな問題。国民の意識を変えようとする努力が見られない。日本メディアはずっと昔から何も変わっていない。社会全体にチャレンジするような代替メディアも生まれていない。

 

僕らの世代から、新しいカタチのメディアが生まれたらいい。

 

【ひとりごと】

メディアが社会を作る。社会がメディアを作る。

 

ラップアップ

 

昨日でCHANGE week 2013が終わり、今日は事務所への移動も伴いながら運営メンバーでリフレクションや後片付けをしていました。どうにか夜までには一通り完了し、ラップアップを迎えることができました。これで、CHANGE week 2013も本当に終了です。

 

ただ、weekは終了してもyearはこれからです。CHANGE weekに参加したみんなは、これからCHANGE yearの1年、全国各地のそれぞれのキャンパスに戻って活動を展開していきます。日本中から学生が小さな変化を引き起こしていけば、いつかきっと大きな変化に繋がるはず。

また、これから活動していくにあたっていま感じている気持ちを、いま抱いている感情を決して忘れないでほしい。”異常な出来事”が溢れ返りすぎていて、もはや何が正常かすら分からなくなってしまう現代。貧困や不公正も含めた種々の社会の問題に対して多くの人が不感症になっている。「多くの人の人権や命が奪われている」という言葉は無機質なものとして慌ただしい現代社会の中で流されていってしまいがちだけれども、そこに発信する人の想いが宿ることで人や社会を変える大きなパワーを持つ。

week中にも話が出ていましたし、僕もここで何度か書いていますが、歴史を振り返ってみれば革命はたいてい若者が起こしています。いつの時代も、社会を、歴史を、変化を作っていくのは若者です。ユースの可能性は無限大です。

 

—–together we can CHANGE the world.

 

【ひとりごと】

来年もこの場に帰ってきたい。

 

現代社会に蔓延る”不可視な貧困”を考える。

 

CHANGE weekは今日で4日目。ついに明日が最終日です。

今日は夕食後にOxjamが行われました。ダンスや歌、漫才、一発芸など、参加者が自由に出し物を行い交流を深める場ですが、今年は全体的にクオリティが高かったです。 また、2012のメンバーも何人か駆けつけてくれたので、1年振りにお互いの活動の話などをすることもできました。時間が経っても、こうして繋がっていられるというのは素敵なことですね。

 

さて、今回のプログラムの本旨とは少し異なるかもしれませんが、休憩時間などのフリーな時間に「日本の貧困」についても話題になっています。僕のところに話を聞きにきてくれる人も多いので、アウトラインだけ簡単にここでも述べておこうと思います。

 

 

まず、日本国内にも貧困が存在する、というのは社会一般にとって共通認識ではないでしょう。日本は先進国であり社会保障も充実しており貧困下に生きる人はいない、と考える人も多いと思います。関東圏であれば寿町だったり、関西圏であれば釜ヶ崎であったり、「国内のスラム街」と呼ばれる地域もそれほど知られているものではありません。

 

いったい何故か。

 

 

日本における「現代の貧困」は、かつての日本あるいは現在の途上国で見られる”可視的な貧しさ”と直接結びつけられる「貧困」とは異なるものだからなのだと思う。社会の発展に伴い、“目に見える貧しさ”はあってはならぬものとして表面的に漂白されていく中で、それでも“貧困”は残る。そうして残った“貧しさ”は、一方で達成され続ける“豊かさ”との狭間に生まれる“不可視な存在”となり、より深刻なものになっていく。

例えば、街作りを進めるにあたっての「景観を損ねる」という理由だったり、国際大会を招致するにあたっての「イメージダウンに繋がる」という理由だったりで路上生活者が公園から締め出される。生きていくために違法な水商売を行う女性は、繁華街での客引きが禁じられ、その存在は“見かけ上”消える。

一見すると社会がクリーンなものになったように思えるけども、その存在自体が無くなったわけではない。「臭いものに蓋をする」的な考え方で進められてきた社会からの締め出しは、貧困の不可視化を招き、解決に向かわせるどころかますます悪化させている。

 

これは、決して当事者だけの問題ではない。社会構造の問題であって、その構造を担いその中で生きる全員が考えなければならない問題。ましてや、決して人ごとでもない。誰にでも起こりえること。順風満帆な人生を歩んできたのに50歳を前にして会社が倒産し、路上生活を余儀なくされそのまま社会から締め出された人を僕は知っている。

 

一人一人が、この国のこれからをきちんと考えなきゃならない。

 

【ひとりごと】

みんなで考えていこう。

 

正当性・妥当性を示せていますか?ということ。

 

16日からオリンピックセンターで開かれているCHANGE weekは今日で2日目。

初日は緊張した面持ちの参加者が多かったですが、会場や雰囲気にも慣れてきたのか表情もだんだん変わってきました。みんな良い目をしている。強い意志を感じます。

 

さて、今日のsession中で、「国内にも貧困はある中で、なぜ国際協力なのか」というテーマでワールド・カフェを行いました。時間が無い中でどうにかしてワールドカフェ方式を導入しようと半ば無理矢理組み込んだので、消化不良になるかもと不安に感じていましたが、何だかんだで良い感じになりました。

本題に関してですが、海外と日本の比較だったり、あるいは共通点を探ってみたり、”海外”と”日本”という枠組みを取っ払って考えてみたり、多様な考え方が出てきていました。どれも間違ってないでしょうし正解だと思いますが、僕にとっては「枠組みを取っ払って」の考え方が一番すんなり感じられます。

 

言葉として表現しにくいのですが、活動指針としてボトムラインを定め、その状況下に陥った場合にアクションを起こしていく。アクションの方法はcase by caseになってしまうでしょうし、同一国家・民族に対しての感情的なバイアス等がかかるのは不可避かもしれませんが、正当性・妥当性はある程度示せるものだと思います。

 

「私たちは○○のために○○の活動をしています」というのも当然大切ですが、その活動の正当性や妥当性を内外(自分自身も含め)に対して示せるというのは、内外から絶えず噴出する懐疑的な声に屈することなく一貫性のある効果的な活動を継続していく上で非常に重要なことだと思います。

 

【ひとりごと】

国内にも貧困はたくさんある。

 

いよいよ明日。

 

今日も引き続き、CHANGE weekの最終準備でした。

午前中は事務所で、夕方からは会場となるオリンピックセンターに移動しました。会場入りすることでいよいよ始まるんだという実感も湧き、ますますテンションも上がるというのはいつも通りのことですが、今回は前泊の参加者にも早速会えたのでより高揚感はより大きかったように思います。

いよいよ明日から、頑張ります。

 

【ひとりごと】

想いを繋げていく。形にする。

 

最終準備が始まりました。

 

CHANGE Initiative 2013の準備のために、今朝から東京入りです。もっと暑いと思っていましたが、飛行機を降りてみると意外に肌寒かったですね。
その後、今日は終日都内の事務所で最終打ち合わせをしていました。

 

去年は参加者(CHANGE Leader)として参加したこのプログラム。今回は運営側(CHANGE Facilitator)として帰ってくることになりました。明後日からの5日間でどんな参加者に、どんな想いに出会えるのか、非常に大きな期待や楽しみを感じています。

 

多少ハードな1週間になりますが、全力で駆け抜けます。

 

【ひとりごと】

アドレナリン全開。