アーカイブ

Archive for the ‘教育’ Category

人口増加と国際協力

 

人口密度が世界一高い国の一つであるバングラデシュ。

 

3ヶ月住んでみて、それを実感する場面は多々ある。兎にも角にも、至る所が人で溢れている。

 

そういった生活の中で頭に浮かぶキーワードは、人口増加。

今日ふと思い出してパソコンの中を探してみたら、ありました。

去年のちょうど今頃、こんなメモを書いたまま、どこにも公開せずに埋もれていました。

今になって読んでみると、自分自身にとっても興味深かったので、今更ながら公開してみます。

 

 

=====
 

人口増加。

 

食物連鎖の頂点にいる人間にとって、天敵と言えるような動物はいない。

現代において、人間の最大の天敵は人間なのかもしれない。

人間の生み出す貧困や紛争が、人間を生命の危機へと追いやる。

そうした危機的状況では乳幼児死亡率が異常に高くなるので、より多くの子孫を残そうとして多産の傾向になる。

そうして、さらに人口が増加する。

 

人類70億人時代を迎えた今になっても人口の増加に歯止めがかかる様子は全くなく、むしろさらに増え続けていくと考えられる。

 

 

資源の枯渇、ゴミ処理問題。

 

先進国での私たちの暮らし。大量の資源とエネルギーを消耗しながら、大量のゴミを排出している。

WWFなどが指摘しているように、現代における私たちの生活スタイル(水準)は、既に地球のキャパシティを大きく超えているのだろう。

数十億年かけてつくられた石油燃料や木材資源など、いわば地球が長い間蓄えてきた”貯金”を利用することで、

一見今の生活が維持できているように思えているが、所詮は貯金の切り崩しでしかない。

いずれ、今のスタイルの限界が来るのは目に見えている。

 

 

僕らが思い描く国際協力とは何だろう。

 

その最終段階が何かを考えたとき、途上国の生活水準が先進国のそれと同等になることをついイメージしてしまいがちである。

 

しかし、上に挙げた二つの理由(人口増加問題と地球のキャパを超えた先進国の生活スタイル)からして、それは不可能なことなのかもしれない。

 

ではどうするか。

 

人口増加を止めるのは非常に難しい。

途上国の貧困や紛争を解決できれば増加の速度を緩めることはできるかもしれないが、止めることはやはり難しいと言わざるを得ない。

仮に止めることができたとしても、”既に多すぎる”のが現状である以上、そこからさらに減らしにかからないといけない。

一度増えた人口を減らすというのには、どれだけの困難を伴うだろうか。

 

ともすれば、先進国の生活スタイルを変えるのが最も現実的、かつ効果的な方法なのかもしれない。

近年中国が、あるいはサブサハラの中でも比較的進んでいるアフリカ諸国が今後主張するであろうに、

そして高度経済成長期の日本がそうであったように、途上国の国々は先進国に追いつけ追い越せと意気込む。

先進国の人たちと同じような生活を営むことに途上国が憧れるのは当然だろうし、そうした豊かな暮らしを目指した”開発”や”援助”も行われている。

 

しかし何度も言うように、現在の先進国の生活スタイルは、先進国に住む今の人数の人たちだけでも十分に地球のキャパを超えている。であるのに、”先進国”がさらに増え、同様の生活を営む人数がさらに増えるとどうなるのか。

 

そういったことを考えていくと、最終段階として私たちが行わなければならないのは「途上国の生活水準を向上させること」ではなく、「先進国の生活水準を下げること」だという結論に達する。

 

 

先進国「環境汚染もひどいし食料も資源も足りないので、途上国は発展の速度を緩めて下さい。いや、これ以上発展しないで下さい。」

 

途上国「過去に同じ過ちを犯してきたお前達になんでそんなこと言われなきゃならいんだ!俺たちにもお前達と同じ生活をさせろ!

 

先進国「…分かりました。私たちの生活水準をここまで下げます。なので、どうかあなた方の発展もここまでにして下さい。」

 

そんな議論が国際社会で繰り広げられる時代がもうすぐ来るのかもしれない。

 

DSC_0323
 

バングラデシュの犠牲祭!

 

昨日はイスラム教徒にとっての祝祭、イード・アル=アドハーでした。

 
 

国民の90%がムスリムで占められるここバングラデシュでも盛大に祝われていたので、今日はそれについて。なかなか衝撃的、かつツッコミどころ満載でした。

 
 

イード・アル=アドハー。イスラム教徒にとっての正式名称はこれですが、バングラデシュでは一般的にコルバニー・イードと呼ばれます(コルバニは供出する動物の意。ちなみにイードはもう一つ、断食明けのロジャ・イードもあります)。と言ってもピンと来ないでしょうが、日本語ではしばしば犠牲祭と意訳されます。こっちの方がイメージが湧くでしょうかね。

 

そもそもどんな日かというと、アブラハムが息子のイスマエルを神アッラーへ進んで犠牲として差し出したことに由来します。これを記念して、世界中から多くのムスリムがサウジアラビアのメッカに巡礼を行います。

とはいえ全てのムスリムがメッカまで行けるわけではないので、行けない人は自分の土地でアッラーに犠牲を捧げます。アブラハムのように自分の息子を捧げるわけにはいかないので(しかも毎年)、牛や羊、ラクダなど家畜を捧げます。国によって違うみたいですが、バングラデシュでは一般的にお金がある人は牛(3〜8万タカ = 4.5〜12万円)、牛が買えなければ小さくて安いヤギを捧げます。

 
 

ということで、コルバニー・イードの1週間くらい前になると、バングラデシュの至る所に牛が出現します。

 

運搬するトラック、あるいはトラックからゆっくりと降りて歩いていく牛のせいであらゆる道路が渋滞になります。僕も先週ダッカから任地に帰る時、しっかり牛渋滞に巻き込まれました。

 

街中には昨日まで何もない広場だったはずの場所に突如として牛マーケットが出現します。

 

DSC_1497

 

売られている牛はこうして繋がれているのでまだ良いんですが、買われた後の牛が問題だったりします。

 

DSC_1499

 

こんな感じで人と牛が雑多な感じで混在しちゃいます。死期を悟ったわけではないでしょうが、当然暴れ始める牛もいますし、発情して交尾を始めようとする牛もいるわけです。ベンガル人も牛の扱いがさほど上手いわけでもないので、非常に危ない。憶測ですが、暴れた牛に巻込まれての死亡例が毎年起こっている気がします。犠牲祭の生贄のせいで自分が犠牲になるなんてことが無ければいいんですが…。

 

牛を購入したベンガル人は自宅へ連れて帰ります。いわゆるドナドナです。当然のことながら、こうしてドナドナを拒否する牛も出てきます。その結果また渋滞が起こったりします。

 

DSC_1478

 

連れて帰った牛はイード当日まで自宅前に繋がれるので、街を歩いている時に「あれ、ここ農家だったっけ?」ということがよく起こります。

 

DSC_1519

 

かく言う僕の家も、1階の駐車場がある日突然牛舎になっていました。門を開けたら門番じゃなくて牛がいるのはなかなかの驚きです。

 

DSC_1523

 

こうしてイード当日を迎えるわけですが、その前に疑問が。この牛達、どこから来たんだろうと。バングラデシュには普段こんなにたくさんの牛はいません。

 

まさか…

 

そうです、隣国インドから来ているらしいです。

 

何かがおかしいですね。とてもおかしいです。

 

何を隠そう、インドは大部分がヒンドゥー教徒の国。ヒンドゥー教徒にとって牛は一種の神様です。

 

そうなんですね、インドで神様だったはずの牛がバングラに輸出されてるんです。インド人、神様売っていいの?とツッコミたくなりますが、この資本主義の時代、お金には代えられないんでしょうね。

とにもかくにも、神様である牛は国境を越えた瞬間、他の神様への犠牲用の家畜になるわけです。

隣の国の神様を自分の国の神様に生贄として捧げるバングラデシュ人の気持ちも気になるところです。

 

また職場の同僚に聞いた話ですが、2,3年前の犠牲祭の時、インドからあまりにたくさんの牛が輸出されてきたせいで、市場で供給過剰が起こり市場価格が大暴落したそうです。

 

そうです、神様が市場に過剰供給され、神様の価値が大暴落したんです。

 

こんな感じでツッコミどころ満載の日々を経て、ついにイード当日です。

普段はいつも渋滞している幹線道路も、この日の朝は静まりかえります。

 

DSC_1525

 

朝8時のお祈りの後、ついにジョバイ(アッラーに祈りを捧げながら生贄を捧げる、つまり牛を殺す)が行なわれます。

ジョバイのルールとして、牛は持ち主を含め家族や周辺住民が抑えます。また実際にジョバイする(牛の頸部に刃物を入れる)のは、各コミュニティにいる担当者がいます。たいてい、ムスリムの宗教学校の生徒だったりします。

 

彼がジョバイ担当者。リストを持って複数の家を回ります。すでに1件済ませてきたらしく、ナイフに血が付いています。写真には写っていませんが、白い服にも返り血が付いてたりします。知らない外国人からすると、彼は完全に逃亡中の殺人者です。

 

DSC_1528

 

ジョバイ担当者が来るのを待ちわびる家族。心なしか、牛が悲しそうな目をしているようにも見えます。

 

DSC_1543

 

この先の写真は控えますが、ジョバイが終わった牛は牛の所有者が自分たち自ら綺麗に皮を剥いで、さらにきれいに解体していきます。僕は保健衛生事務所の所長宅にお邪魔してたんですが、彼はさすがお金持ち、大きな牛を2頭買っていたので解体も大変です。お手伝いさんや家族など、総勢10名で昼過ぎまでかけて解体してました。

解体した肉や臓器はもちろん、頭部も含め骨と消化器内容物以外のほぼ全てを食べます。

 

昼前になると剥いだ皮を回収する人が現れ、一軒一軒牛皮を集めて回ります。こうして集められた牛革はどこかしらの工場で靴などの革製品に加工されます。神様は生贄となり、さらには履物になっちゃうわけです。

 
 

こんな感じのコルバニー・イード。側から見ていて感じるのは、本来もっと宗教的な意味があるはずの祭典が、単なるお祭りになっちゃってるなと。でもしょうがないかもしれない。特に中流階級以下の人たちにとっては普段食べられない牛肉orヤギ肉がたくさん食べられるわけですから。さらに言えば、日本も同じですよね。クリスマスしかり、正月しかり。今の時代、多くの国がこうした現実を抱えているのかもしれません。

 
 

一方で、この祭りが果たしている意義も大きいように思います。

 

まず一つは、自分たちが口にしている食肉がどのようにして得られているかを学ぶ貴重な場であるということ。多くの日本人にとって、肉というとスーパーできれいにパッケージングされたものを思い浮かべてしまい、ついついそれが尊い命であったことを忘れてしまいがちです。こうして自分たちで牛をつぶして、命を頂くということを身を持って経験する。今の日本人に足りていない経験かもしれませんね。牛を殺すというと残酷なようにも思えますが、もしかすると自分たちが他の命を口にしているということを考えなくても済んでしまう僕ら日本人の方が残酷なのかもしれません。

 

また、こうして得られた肉が貧しい人たちにも配られるということ。イスラム教の教えで喜捨という言葉がありますが(正確に言えば仏教用語らしいですが)、これが貧しい人に自分の財産を分け与えるというもの。このコルバニー・イードにおいても、牛の3分の1は自分たちで消費し、3分の1は親しい人に配り、3分の1は貧しい人に分け与えます。

 

僕の街でも、こうしてモスクに集めた肉を計りを使ってきちんと重さを計り、貧しい人たちに公平に配っていました。

 

DSC_1605

 

こうした寄付文化のようなものは、イスラム・キリスト教国と比較して日本が圧倒的に不足しているものかと思います。

生活保護などの行政サービスだけではなく、こういった地域コミュニティの中で支え合う方法から学ぶ点は多いのかもしれません。

 
 

また、単なる祭りとして形骸化していると上で書きましたが、祭りは祭りとして家族が故郷で集まっているのも事実です。日本では正月も盆も仕事だったり旅行に行っちゃったりしますが、バングラデシュでは普段忙しい人も多くが故郷へ里帰りします。たった1日でも、わざわざ帰ったりします。そうして家族が集まり、みんなで料理をして食事を楽しむ姿は、かつての日本にあり今の日本が無くしてしまったものかもしれません。

 

そうやって考えていくと、このコルバニー・イードがバングラデシュ社会の中で果たしている役割は想像以上に大きいのかもしれませんね。

 
 

【余談】

 

牛市場では当然売れ残る牛もいるわけです。売れ残りがどうなるのか気になって聞いてみたところ、一部は再びインドへ帰っていくそうです。つまり、神様は生贄となり、売れ残りの生贄はまた神様になるわけです。そしてまた来年、生贄候補としてバングラデシュに帰ってくるんでしょう。牛も大変ですね。

 

また今年くらいから、牛の輸出がインド側で制限され始めているようです。神様だから大事にしようということなのか、神様だから市場価格の暴落を下げようとしているのか、インド人の本心は明らかではありません。

来年からバングラデシュに行きます

 

卒業後の進路が決まりました。

先日JICAから青年海外協力隊の合格通知を頂き、来年から2年間バングラデシュで働きます。

 

派遣先はバングラ東部、インドとの国境に近い地域の保健衛生事務所。業務内容は結核、ジフテリア、百日咳、破傷風、ポリオ、麻疹、B型肝炎などの予防接種事業、あるいは下痢症全般に関わる対策プログラムの計画立案から実施、モニタリング、評価まで。

特にポリオは撲滅宣言まであと一歩まで来ている一方、近隣のインドあるいはパキスタンなどからの伝播も危惧されており、今年5月にはWHOが緊急事態宣言を出しているホットなトピックです。
http://www.cnn.co.jp/world/35047477.html

 

ただ実は、本当は将来のキャリアパスを考えた上で「アフリカ、フランス語圏、熱帯感染症 or HIV/AIDS対策」を希望していました。希望とは異なるものになってしまったことで合格通知を頂いた直後は悩みもしましたが、今は非常にバングラ行きを楽しみにしています。

こうして決まったのも何かの縁でしょうし、バングラはパキスタン・フィリピンと並ぶ「プロジェクトが上手くいかないアジア三大地域」の1つであり、時間へのルーズさや日本人との公共心の差など、アフリカに通ずるものも多くあります。また、イスラム教徒が8割というのも一昨年の中東での経験を生かせそうですし、残り2割のヒンドゥーには未だ触れたことがなく非常に興味深くもあります。要請はされていませんがマラリアやデング熱、チクングニア熱の流行もあるようなので、保健所勤務の強みを生かしてそうした仕事も自分でアレンジしていけるかもしれません。
そうしたことも踏まえて改めて考えてみて、将来的にアフリカに関わっていく上でまずはアジアを一度経験しておくのもいいものなのかもしれないと思うようになりました。

ということで、ベンガル語とカバディの国で2年間もがき楽しんできます。

 

今回の協力隊受験、そして進路決定に際して多くのご支援やご指導、また温かい励ましの言葉を頂いた皆様、本当にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

10150682_487823641345207_2057898527743237189_n

 

 

母校の素晴らしさを語ってみる。

 

僕の母校、札幌開成高校(弟も現在在学中。東京の開成高校とは無関係。)は今年で創立50年を迎えました。それを記念して開かれた学科のOB座談会に今年の夏、3期生を(勝手に)代表して参加させていただいたんですが、そのおかげか完成した記念冊子を先日送って頂きました。(50周年記念歌は谷川俊太郎氏に作詞、久石譲氏に作曲を手がけて頂いたたそうです。びっくり。)

50周年なのに3期生というと、おまえ何歳だよと言われそうですが、開成高校は8年前から普通科に加えてコズモサイエンス科なるものを設置していて、僕はその3期生にあたります。開成高校の45期生であり、コズモサイエンス科の3期生なわけです。なので僕は21歳ですw

 

ちなみに、コズモサイエンスという言葉はコスモス(宇宙)やコズモポリタン(国際人)を表す「コスモ」という造語と、自然科学をはじめ社会科学や人文科学を表す広い意味の「サイエンス」を組み合わせたものであり、その名の通り「科学的・論理的思考力を持った世界に羽ばたく人間を育てる」学科です。造語を作ってこれだけ大きな野望を描いているだけあって、コズモサイエンス科は開成高校の強烈なアイデンティティのひとつであり、今回の記念冊子でも多くのページがコズモサイエンス科の内容で占められていました。
今回その一つ一つを読んでみたんですが、つい4年前、僕がいたころには存在しなかったカリキュラムもたくさん増え、ますます進化していることにすごく驚きました。例えば、

「野外観察」では生物・地学・環境科学の3分野でのフィールドワークが週末や長期休みに組まれ、「先端科学特論」では北大や酪農学園大学に実際に行って最先端の講義や研究を体験。「大学出張講義」では北大や関東の大学からお呼びした先生の講義を聞くことができ、2年時には修学旅行ではなくオーストラリアに「ホームステイ」。その直前にはJICA札幌の施設で生徒80名に対して20名ものALTが参加しての「語学研修」が行われる。さらにその他希望者にはこれまたホームステイによる「北米研修」の機会も。
ここらへんまでは僕の時代にもありましたが今は普段の学内生活も充実しているようで、「放課後ユニット」では物理班、化学班、数学班、国語班、国際交流班に分かれて受験勉強とはかけ離れた研究活動も。他にも自分の好きな本をパワーポイントを使ってプレゼンしたり、自分の住んでいる地域や日本の文化を英語でプレゼン、学校祭では地域住民向けにポスターセッション、地域の小学生を招いて英語・数学・理科の魅力を授業・実験を通して伝えたりも。さらにすごいのは、コラボレーション授業と呼ばれる科目の枠を越えた授業。数学×物理(ベクトルの内積と仕事)、理科×環境×英語(各物理とエネルギー)、数学×化学(最短経路問題とシャボン膜)、倫理×数学(ゲーム理論と囚人のジレンマ)、数学×情報×iPad(数式によるグラフの移動)、生物×物理×化学×英語(メンデル遺伝)とか。

 

長々と書いてしまいましたが、でもこれって本当にすごいことだと思います。社会の風潮は点数至上主義であり、いわゆる受験戦争真っ只中。その中でこれだけ先を見据えた教育環境が整備されている母校を本当に誇りに思います。

 

学園紛争の時代、北海道最高峰の北高や南高でデモに参加した学生が退学処分を受けていた中、「生徒の自覚を待つ」として決して処分を行わなかったのは開成高校。全校集会で制服自由化を決議して翌日から私服登校が始まったのは開成高校。当時それが社会問題となりながら、連日深夜まで及ぶ職員会議のすえ北海道で最初に制服を廃止、私服を認めたのは開成高校。私服でありながら決して乱れることはなく、秩序を保っているのは開成高校。
そして、高校時代の楽しい思い出話を誰より多く口に卒業生がいるのは開成高校。生活偏差値、生きる力が格段に高いと言われるのは開成高校生。
ちなみに、放課後早い時間にこっそり窓から帰る先生がいたのも開成高校。机を壊して暖房の薪にしてたのも教室で酒を飲んでいたのは昔の開成高校生。全校競歩中にジンギスカンを始めるのも開成高校生。

開成は「自由」であり、生徒の「自主」性に任されることの多い高校だけれども、その根底には「自分たちのことは、人に言われるのではなく、自分たちで決める、自分たちでやる」という精神が宿っているんでしょう。

 

僕も相当crazyなやつだったと先生方にはよく言われますが、それも今思えば開成高校の伝統を受け継いでいたからこそな気もします(ポジティブすぎ?)。さらに言えば、開成高校、とくにコズモサイエンス科の理念に沿った人間に僕はなってきている気もします。僕のどこかに、強烈な開成高校のidentityが埋め込まれているんでしょうね。

 

開成高校でよかったと、心の底から思っています。

 

 

【ひとりごと】

学科のOB座談会のページ。集合写真で一人だけピースしてやたらと目立っているのは中田北斗。やたらと発言が多くて長いのも中田北斗。参加者紹介欄の自己紹介がやたらと長いのも中田北斗。50周年記念冊子、是非ご覧下さい。

 

人が変わると社会が変わる。社会が変わると人が変わる。

 

昨日のブログで国際協力における魚の話を書きました。あの話を違った角度から捉えると「根本的な解決のためには環境(社会)を変えることが大切」ということでもある。これは、他のことにも通じる感覚だと思う。

 

今の社会には異常な事態、クレイジーな事件が溢れている。寒い冬、暖房をガンガン焚いた室内で半袖で過ごす人がいる一方で、外で凍えている人がいる。たくさんの食料が食べ残されている一方で、飢餓に苦しむ人は世界に溢れている。生まれながらにして裕福な一生を保証された人がいる一方で、差別という壁に組まれて社会進出ができない人がいる。
人間達は憎しみあい、殺し合い、そして悲しみにくれる。誰が味方で誰が敵かも分からず、ホンネとタテマエはいつだって複雑に交差する。子ども達が被害者ばかりか、ときには加害者にだってなってしまう。
身近なところでも喧嘩や軽犯罪は溢れている。小中学校でのいじめはもはや定番と化してしまっているし、自殺者はあとを絶たない。
ついでに言うなら、この社会はあらゆる問題に対して不感症になってしまっている。連日のようにニュースで流れる”異常事態”。それがあまりに膨大で、定期的なものなってしまっていることで、心の感受性が下がっている。

 

だけど僕は、貧困から目を背け裕福に暮らす人やいじめっ子を批判したいんじゃない。ましてや、不感症になってしまっている”傍観者”を責めたいわけでもない。
問題があるのは、やっぱり環境であり、社会なんだと思う。いじめっ子を批判するのは簡単だけど、それじゃあ何も解決しない。生まれながらのいじめっ子なんていない。子どもがいじめっ子になってしまう社会が問題であって、それが変わらない限り新しいいじめっ子は次から次へと出てくる。きっと、他の問題も同じ。人々が不感症になる社会が問題であって、不感症の人たちだけを責めても何も変わらない。裕福な人がそうでない人に目を向けなくなる社会がここに今あるわけで、裕福な人を罵倒したってしょうがない。

 

 

根本的な解決のためには、環境を、社会を変える必要がある。

 

 

もちろん、社会を形作っていくのは僕たち。だから社会を変えるということは、僕たちが変わるということであり、僕たちで変えるということ。そういう意味では、一人一人を変えていくことは、少しずつ社会全体を変えていくことでもある。だけど、”変化”のスピードがはるかに速いものになるのは、社会が変わることで人が変わり始めた時。子ども達が他人を思いやる気持ちを自然に持つような社会に変われば、そこに居る子ども達は極めて速いスピードで変わっていくことができる。

 

一人ずつ人が変っていくことで、少しずつ社会が変わっていく。このスピードはすごく遅い。
だけど、社会の変化がある一定のレベルに達した時、そこにいる人たちは急速に、スピード感をもって変わっていく。そして、同時に社会もさらに急速に変わっていく。そうすると、人々はさらに急速に変わっていく。
そういう現象が起こるレベルまで、社会を変えていかなきゃならない。こういう挑戦はいつだってすごく大変で、圧倒的にマイノリティで、心細いアウェイなものではあるけれど、変化はいつかマジョリティになる。

 

 

人が変わると社会が変わる。社会が変わると人は変わる。

だから、僕は社会を変えたい。そのために、ひとりずつ、人を変えていきたい。

 

P.S.
そのために、まずは自分が変わらなきゃならないのは言うまでもない。

 

“AIDS” GOES ON … 〜エイズは続いている〜

 

今日の札幌は夕方から大雪でした。さっき帰ってくる時も、オフロード対応のはずのロードバイクが途中で埋まるわ埋まるわ。僕自身も膝下まで雪に埋まりました。アパートの前も雪がひどかったので、最後はロードバイクを肩に担いで雪をかき分けながらアパートに辿り着きましたw

 

 

さて。日付は変わってしまったけど、12月1日はWorld AIDS Day。世界エイズデーでした。今年のテーマは

“AIDS” GOES ON … 〜エイズは続いている〜

エイズと聞くと、どこか遠くの国の話、少なくとも自分には関係ない話と思ってしまう人も多いでしょう。それが形として現れているのが、HIV検査および相談の件数。ここ数年、日本では減少傾向にあるようです。
でも、実際は違うんです。日本の新規HIV感染者数およびエイズ患者数は増加しています。さらに驚くことに、先進国でエイズが増えているのは日本だけだそうです。

東南アジアやアフリカでももちろんそうですが、エイズは決して”違う世界”の話じゃないんです。僕らの身の回りの問題でもあるんです。自分や自分の大切な人のために、エイズを予防するための正しい知識は非常に大切なことです。そして一方で、いまだに世間に根付く「エイズ患者=危険」というイメージも払拭しなきゃならない。

 

この世界エイズデーがひとつの契機となることで、僕ら一人一人がHIVやエイズについて正しく理解し、それが社会全体に広がって予防意識の向上や差別・偏見の解決になればいいですね。