アーカイブ

Archive for the ‘政治’ Category

誰の、誰による、誰のための開発?

 

バングラは明日からコルバニーイード(犠牲祭:イスラム教のお祭り。また後日詳しく書きます)の連休ということで、連休前日の今日は多くのベンガル人がザワザワして落ち着きがありません。

また、本来であればそろそろ雨季の終盤のはずなんですが、そんな様子を微塵も感じさせないほどここ数日大雨。

ということで、今日は自宅待機という名の自主休業ということにして、久しぶりに家でゆっくり読書やら考え事やらしてます。

 

 

数年前にどこかの座談会か何かで聞いた話をふと思い出したんですが、

その彼女はNGOを立ち上げてラオスの農村部を対象に数年かけて保健関係の活動をしたそうで。自らも村の中に住み込んで、できるだけ村人と同じ目線で、同じ生活環境を共有するようにして。で、数年経って目に見えるような成果が出てきて。少しずつ余裕が出てきたこともあって、その対象の村だけではなく近隣の他の村も含めて一歩引いた視点に立って広く全体を見てみたそうで。

他の村と自分の村を比較することで、自分のここ数年の成果がよりクリアに見えることを彼女は期待していたそうですが、いざ他の村に目を移した時に感じたことは全く逆だったそうで。

自分が尽力した村と比較して、他の村は衛生環境も良くないし、下痢などの病気も多い、産科系の問題も多い。確かに、彼女の活動は実を結んでいる。けれど、そうした問題を抱えた村でも、間違いなく村の中でサイクルは回っている。いくら病気が多いといっても、人口が減るわけでもない。

自分の村が幸福の村で、他の村が絶望の村。そんなことを期待していたわけではないけれど、思いの外、違いがなかったと。もう少し正確に言えば、自分が数年かけて尽力したことに、どれほど価値があったのか分からなくなったと。

 

人間の安全保障という観点で捉えれば彼女の抱いた思いは少しばかり間違っていて、彼女の活動は間違いなくその村に成果をもたらしたのだろう。だから、そう悲観的に捉えることはない、と彼女に伝えることもできるだろう。

だけど、実際に末端のフィールドレベルで多くの時間と経験を共有した彼女が語るその”無力感”には、大きな説得力があった。

 

 

もう一つ別の、僕自身が体験した話。

 

今年3月、アフリカ東部のソマリランドという国を訪れた。日程や予算の問題もあってわずか3日で隣国エチオピアに戻ってしまったのだけど、その間に見たこと、聞いたことは大きな驚きだった。

 

ソマリランド共和国。1991年にソマリアからの分離・再独立を宣言。憲法や議会などを持ち、独立国家として完全な能力を有していると言われながら、日本やアフリカ連合を含む国際社会は未だに独立国として承認しておらず、ソマリアの一部と見なされている。(この背景としては、多くのアフリカ諸国が自国内に抱える民族独立運動の好例を与えてしまうことで運動が活性化することを恐れていることが一つ。詳細は割愛。)

国家として承認されていないため、ソマリランドは国際社会からの援助を全く受けられていない。天然資源は埋蔵が確認されているらしいが、現状採掘には取りかかれていない。特にこれといった産業もなく、畜産などの一次産業が中心。

 

そんな国だから、国の内情はさぞかし酷いんだろうと思って入国したが、首都に着いてまず驚いたのは街がすごく綺麗。ゴミが全然落ちていない。

ソマリランド人と話してまた驚いたのは、彼らの自国に対する誇り。単なる愛国心ではなく、自分たちの手でこの国を作り上げてきたという強烈な自負を持っている。だから道端にゴミを捨てることもなく、街中は当然綺麗に保たれる。

たいていの途上国では自国政府に対する不満を持つ人も多い。政府が悪いから、政府がやってくれないから。そんな言葉をよく聞く。けれどソマリランドではそんな言葉は一度も聞かなかった。政府と国民が一枚岩になって前に進んでいるような印象だった。

他国の援助に頼れない分、24年かけて安定したインフラ、汚職のない警察・軍、そしてゆっくりではあるが確実な経済成長を成し遂げてきたソマリランド。

 

対して、ここバングラデシュはどうだろう。多くの海外ドナーが入り込み、急速な経済成長が進んでいるように見える反面、開発という言葉の裏では国際社会の色んな思惑が渦巻いている。日系を含む海外企業も多数進出しており、多くのバングラ人が使い捨ての労働力として消費されている。警察も軍も、多くの政府系機関でも汚職が横行。

バングラ人自身も国内の多くの問題を認識はしているものの、「ここはバングラだからしょうがない」の一言で済ましてしまう。何かトラブルがあれば、政府(あるいは神様)のせいにする。

バングラ人が悪いと言っているのではなく、そりゃそうなるでしょうよ、ということ。自分たちが頑張る前に、良く分からないうちに海外から良く分からない人たちが入ってきて、良く分からないけどとりあえず良さ気な感じのことをしてくれてきたんだもの。自国の経済レベルや成長スピードを大きく超えた”援助”が大量に流れ込んでくれば、政治家だって道を誤るだろうし、国民だって誰か自分以外の何かに期待したくなる。

 

 

全然異なる二つの話だけれど、共通して僕に問いかけてくるのは「開発における国際社会の介入の必要性」。

 

僕らが良かれと思ってやることは、大きなお世話になってないだろうか。

確実な成果があったとして、果たしてその成果は必要なものなのだろうか。

一見して良い成果を生んでいるように見えて、その裏でそれ以上の問題を生んでいないだろうか。

 

よそ者が勝手に入ってきて、勝手に開発を進めて、勝手に問題を生んで、その問題をまた勝手に解決しようとする。

そんなことは、絶対にあってはならない”はず”。

 

国の発展はその国の国民が担うべき。そんな当たり前のことが、何より難しいのかもしれない。

せっかく協力隊で来ている以上、そういう地味だけど普遍的なことを大切にしないと。

 

DSC_0086

*ソマリランドの首都ハルゲイザの中心部。警察官(右)は真面目に交通整理、ドライバーの運転マナーも良い。道にはゴミが落ちてない。

 

 

ピースとハイライト

 

この前の大晦日、久しぶりに紅白歌合戦を見た。
何気なく見ていたらサザンオールスターズが出てきて、桑田さんがチョビ髭つけて映ってた。
その時点では何とも思わなかったんだけど、1曲目が始まってその歌詞に驚いた。

「ピースとハイライト」

非常に大きな感銘を受けると同時に、よくこんな曲をNHKで歌えたなと思ったけども、
本番直前まで出演に関して揉めていたという話を聞いて納得。

チョビ髭が何を意味するかもよく分かった。

〜〜〜
都合のいい大義名分(かいしゃく)で争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?
燻る火種が燃え上がるだけ
〜〜〜

 

曲をもう一度聞こうと思ってYoutubeでPVを見てまた驚いた。

安倍首相やオバマ大統領、さらには朴大統領のお面まで登場してる。

 

こういった曲を発表して、さらには30年以上振りの紅白出演に引っ提げてくるサザンオールスターズ、
さらにはこれを放送したNHKの英断は本当にすばらしいと思う。

アイドルやらジャニーズばかりがランキング上位を占める日本の音楽業界だからこそ、
こういった社会問題に対して強烈なメッセージを突きつけるこういった曲は評価されるべき。

 

今回のサザンの曲で思い出されるのは、

ミスチルの「タガタメ」

だったり、

John Lennonの「Imagine」

あるいは少し毛色は違うけどLady GaGaの「born this way」

 

特定の時代で多くの人に評価される”普遍性”もいいけど、
こういった曲のように時代を超えてあらゆる世代に通ずる”普遍性”を大切にしたいと思う。

あるいは、こういった曲が歌われなくても済むような時代が来れば本当に良い。

 

【ひとりごと】

このすばらしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?
愛することを躊躇(ためら)わないで

〜ピースとハイライト〜

キャリアパスの選択〜国連・政府・民間NGO〜

 

国際協力に関わるキャリアパスを描く上で考えること、第2回。

 

前の記事で国際協力を行う3つの組織を紹介しましたが、今回は3つのそれぞれの特徴について。

 

 

国連で働く場合。基本的に国連の仕事は有期(期間限定)であり、数ヶ月~2年くらい。その期間が終わった後は、他の空いているポストに再度アプライして採用される必要がある。

 

政府で働く場合、一番身近なのはJICA。基本的には国家公務員とほぼ同等の待遇。国連にせよ政府にせよ、基本給に加えて色んな手当がつく場合がほとんどなので、給与的にはかなり恵まれた額をもらえる。ただしJICAが生涯雇用の形態を取っているのに対して、国連の場合は先述のように有期の仕事になるので、常に就職活動がついてまわる。だからこそ、本当に人脈やコネが重要となる。

 

それらと大きく異なるのが民間NGO。前の記事でも述べたように、国連や政府の場合は主要国あるいはその国の利害関係などのしがらみがあり、組織としての意思決定に直接関わるのが難しい、そしてアクションが非常に遅い。(また、一部を除いて国連が作る多くのガイドラインには法的拘束力がない、という事実もある。)NGOの魅力は自分の信じていることをやれる場合が多い、そしてスピード感も保てる。
一方で、給与面では非常に厳しい。日本のほぼ全てのNGO職員は平均水準以下の給与、あるいはほとんど無給という場合も珍しくない。ただし、欧米のNGOの場合はそうでなかったりもする。特にキリスト教圏では寄付文化が浸透しており、NGOにも寄付が集まりやすい。何より、政府を含めた社会からの認識のされ方が違う。政府からの委託事業があったりそれに付随して予算が流れてきたりもする。欧米のNGO職員は国連・政府職員並みの待遇を受けている場合もあるし、だからNGOと政府職員、大学教員、国連機関などのポストをグルグル回るようなキャリアの人も珍しくない。国際協力をやっていく上でそれぞれのポストにメリット・デメリットがあることを考えれば、こうしたキャリアパスが現実的に選択できるということは個人にとっても社会にとっても大きな利益だと思う。

 

そうしたキャリアパスが選択し難い今の日本の現状は、国際協力の分野で日本が抱える大きな問題だと思う。現状、NGO側に人が寄りづらい、言い換えれば国連・政府側に人が流れてしまいやすい状況を生んでいる。実際、独り身の20代のうちはNGOでも、家庭をもった30代以降ではJICA専門家などに流れてしまう場合は多い。一概にそれが悪いわけではないけれど、人の流れがそうして一方向的に制約されてしまうことで失われるものは大きい。社会全体として、官製ではなく民間主導の寄付文化の土壌育成や、国際協力への理解を広めていくようなロビー活動全般が非常に重要だと思う。あるいは個人に限って言えば、そうしたそれぞれのポストの経済状況を知った上で、ライフプラン全般を含めたキャリアパスの構築が大事になるはず。

 

P1010138

カテゴリー:国際協力, 政治 タグ: , , , ,

緊急援助と開発援助

 

国際協力の世界で生きていこうと考えたのが約2年前。どういう道があるのかをそこから考え始めて、青年海外協力隊の受験を選び、そして先日バングラデシュに合格しました。

その過程の中で僕自身多くのことを新しく学びましたが、一方で国際協力やってる学生であっても、仕事としての国際協力の形、あるいはそのキャリアパスについて知る機会は決して多くはないと感じました。

 

ということで、学生を終えた後も仕事として国際協力に関わり続けたいと思う人に対して少しでも役に立てばと思い、僕がキャリアパスを描く上で考えていたことを今後何回かに分けて書いてみます。

 

第1回の今回は、国際協力の形と、行っている組織の話から。

===

 

国際協力は「緊急援助」と「開発援助」の大きく2つに分かれる。

 

緊急援助は自然災害や紛争・内戦などの発生時に行われるもの。こうした緊急的状況においては、まず真っ先に食(水、食べ物)、その次に衣や住への援助、そして医療関係、さらには人権関係などの援助が行われる。国際協力の世界で良く言われる「魚を与えること、釣り方を教えること、釣れる環境を作ること」の「与えること」にあたるものが、こうした状況では行われることになる。

 

一方で開発援助は、災害や紛争などの無い比較的落ち着いた状態の国・地域で行うもの。学生団体などが行っている国際協力はほぼ全て、この開発援助にあたる。緊急援助のように外国人主体、外国人の価値観で行うものではなく、その地域のニーズや希望に応じて、そこの住民が望む形でプロジェクトを行っていくもの。

「現地の住民主導で、現地のコミュニティの中で未来永劫サイクルが回っていくような形を」、あるいは先述の「釣り方を教えることが大切」、というのはある程度まともな国際協力に関わっていれば必ず聞くことではあるけども、これは基本的には開発援助に対して言われていること。例えば教育関係のプロジェクトと言うと、現地に学校を作って、日本人が先生役として派遣されて、給食などで栄養改善も図って、という形をイメージする人も多いけれど、これでは持続可能性はゼロに等しい。日本人教師は任期が終われば帰国してしまうし、学校建設費はともかくとして維持費や教師の給料、給食費、その他諸々のお金を永遠に日本から送り続けることはできない。
だから、現地の住民の中から教師を育成する必要があるし、その教師がまた次の世代の教師を育成する必要もある。資金面においても日本からの支援によって賄うのではなく、現地のコミュニティの中から支出できるようにしていかなければならない。

そうしたことのためには、そもそも「学校を作り、維持していきたい」、つまり「学校が必要だ」と住民達が考えていることが大前提として必要となる。現地の住民を主体として外国人がそのお手伝いをさせて頂くこと、それが開発援助の本質。

 

簡単にまとめると、緊急援助は生命の危機が迫っている状況でその苦痛を軽減するために、外国人が「あげる」援助。開発援助はそこの住民が主体となり持続可能性が大切な「あげない」援助。

次に、そうした国際協力は誰が行っているのか、という話。
 

ざっくり大別すると、「国連」「政府」「民間」の3つ。そのうち国連と(日本)政府が行っているもののほとんどは開発援助。緊急援助を行っているのはほとんどが民間、例えば国境なき医師団や赤十字。国連の組織の中で例外的に緊急援助に関わっているのは(僕がいま思いつくのは)4つ。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WFP(世界食料計画)、UNICEF、PKO(国連平和維持活動)。日本政府が行う数少ない緊急援助は、大規模な自然災害時に医療チームや自衛隊を派遣する「緊急援助隊」制度。一方で緊急援助の対象となるもう一方のケース、紛争に対しては憲法9条によって軍事介入ができない(この解釈が変わろうとしているけども)ので、ほとんど行われない。ときどきPKOに依頼されて、最も安全な地帯にちょっとだけ入るくらい。

 

国連、政府、民間を「スピード感」で比較すると、圧倒的に早いのは民間、つまりNGO。トップの判断でその日のうちにプロジェクトが始動し、翌日には先発隊が現場に入るなんてことも珍しくない。政府の場合は基本的には内閣で協議、法案の作成、国会での予算承認が必要なので1年ないしはそれ以上かかることも。国連の場合はもっとやっかいで、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスといった拒否権を持つ国々が拒否権を行使した時点で何もできない。米・露・中の思惑が一致することは少なく、それらの国の利害関係に大きく振り回されることが多い。つまり、政府や国連の行う援助は、援助した側にもメリットがある場合のみ行う、ということが多いということ。こういう言い方をしてしまうとすごくブラックなイメージになってしまうけれども、「双方の利益」のもとに「困っている人を助ける」という2面性が実際のところ。こういう理由で、(特に政府関係では)「国際貢献」ではなく「国際協力」という言葉が使われるのかなと僕は思っている。これに対して欧米系のNGOなどで「社会正義」という言葉が使われるのは、見返りや利益を求めることなく、人道的・道徳的な理由で行っているからだと思う。

 

それから、上記の3つに次いで挙げるべきものが「企業」。最近流行りのCSR、つまり「企業の社会的責任」が分かりやすい。単に利益を追求するだけではなく、経済、社会性、環境への配慮の3つのバランスをとること。例えばUNIQROのバングラ支援とか。

 

卒業後も仕事として国際協力を続けていく場合、国連系、政府、NGOなど色んな形があるということ、それぞれにメリット・デメリットがあるということも知っておくべき。次回はそんな話を少し詳しく書いてみます。


149842_542250842459132_651193005_n

参院選を前に。

 

圧倒的な現政権への支持率と、投票率が50%を下回るのではと噂されるほどの有権者の関心の低さ。そうした中で行われる今回の選挙を前にして、巷に溢れているのは自民党圧勝を予想する声。
そんな中、1人区において自民党が勝てない可能性がありそうなのが、秋田、岩手、沖縄と言われている。僕もすごく注目している。特に秋田と沖縄に。

 

秋田の松浦大悟氏。選挙制度の弊害のひとつは、政治家が「目に見える、分かりやすい、票を集めやすい」ものに取り組みがちだということ。実際、ほとんど全ての政治家がそうであると思う。一方で、選挙に勝つというのは彼らにとって最大の、そして最低限の目標である以上、仕方がないことなのだとも思う。今のシステムの中で、政治家個人を責めることはできない。
一方で、「目に見える、分かりやすい、票を集めやすい」ものではない、しかし必ず必要なものもある。誰かがそれをやらなきゃならない。松浦さんはそれをやってきた人だと思う。社会のために、自分の信念をもって、自分の価値観に沿って動くというのは、簡単なことではない。特に、政治家という職にありながら貫き通すというのは、僕が思うよりも何倍も大変なことなのだと思う。僕は彼を尊敬している。そして、日本の国会に間違いなく必要な人だと思っている。

 

沖縄。ここにきて9条改正を明確に言及し始めた安倍総理。沖縄県民は参院選でどういう答えを出すのか。9条改正反対、せめて沖縄だけはNOを突きつけてほしいと思う(もちろん、広島と長崎も)。せめてそれだけは、と思う。

 

 

自民党の圧勝、僕はそれが望ましいとは思わない。だから、今回もやっぱり投票にいこうと思う。自分の1票がどれだけの意味を持つのか、そんなことを考える前に、投票することが先だと思った。

そして、こうしてブログを書こうとも思った。僕がこうして書くことで、果たして何票動くのかは分からない。むしろ、1票も動かないと考えるのが普通だろう。だけど、それでも書こうと思った。

 

 

先日、湯浅誠さんがこんなことを書いていた。

 

——————「最善を求めつつ、最悪を回避する」ことが重要

 

そして、こんなことも。

——————政治的中立とは、すべての候補者を平等に評価します、ということ。政治総体に対して批判的立場を堅持とは、「どうせ誰がやったってダメだよ」とか言いながら棄権する(もしくは白票)ということ。でもそれは、私がやらなくてもマスメディアがやっているし、多くの有権者がやっている。

 

 

僕も、それに倣おうと思う。

 

【ひとりごと】

あと2日。

 

 

議論が足りない。国の未来を考える姿勢はさらに足りない。

 

5月3日は憲法記念日ということで、いま話題の96条改正について僕なりに思うところを書いてみます。

 

 

日本国憲法第96条には、次のように書かれている。

第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 

いま、議論となっているのはこの「三分の二」を「二分の一」にしては、というもの。それに関連して、日本国憲法が硬性憲法だとか、60年以上改正されたことがないのは異例だとか、二分の一では法律と差別化できないとか、色々と言われていますね。

 

僕が思うのは、そもそも96条を変えようとする背景がそれ相応しくないということ。

「GHQ占領下で作られた憲法を国民の手に取り戻す」と言えば聞こえはいいけども、要するに9条を含めいくつかの条項を変えたいということ。ただ、ここ数年それを目指してやってきたけど、どうもうまくいかない、三分の二は難しい、そもそも議論が深まらない。だからまずは96条を、ということ。

 

改憲が良いものかどうかは別として、改憲がなかなか行われないのは議論が深まっていないから、その一点に尽きると思う。同じく硬性憲法を有する欧米諸国で過去何度も改憲が行われているのでも分かるように、60年以上もの間日本国憲法が変わらなかったのは、日本国憲法が硬性憲法だから、変えにくい憲法だからではない。60年もの間、改憲の議論が国会でタブー視され、ほぼ全くと言っていいほど議論が行われてこなかったから。もちろんそれは国会だけの責任ではなく、世論やマスメディアも含め、日本社会全体において憲法改正を討議する環境がほとんど設けられてこなかったということ。

今回の96条改正の問題。僕には「必要なステップを今まで踏まずにいたせいで成し遂げられなかったことを、必要なステップを省略することで成し遂げようとしている」ように思える。硬性だろうが軟性だろうが、憲法ってそういう扱いをされるべきものではない。踏むべきステップは踏まなければならない。二分の一とか三分の一とか、そういうことが大切なのではない。二分の一でも必要なステップを踏めるのであればそれで構わないが、そのステップを省くための”簡素化”はあってはならない。

 

「日本国民の手に取り戻す」とか、そういう言葉につられちゃいけない。96条を変えるということが、憲法を変えるということが、どういうことなのか、日本に何をもたらすのか、その一点において一人一人がきちんと考えなきゃならない。

 

【ひとりごと】

法学関係に関して、僕は全くの素人。色んな意見が聞きたい。

 

議員会館にお邪魔してきました。

 

今日から東京入り。

羽田に着いてからは、真っ直ぐ赤坂の衆議院第二議員会館へ。急にお邪魔する形になってしまいましたが、色々とお世話になりました。また近いうちに伺おうと思います。

 

【ひとりごと】

国会が昔見た時より大きく感じられた。

 

カテゴリー:政治 タグ: , ,

偏っていい。偏ったままであればいい。

 

メディアを考えるシリーズ、第2弾。
今回は、日本メディアがダブルスタンダードに陥っている、ということについて。

 

例えば、人種的差別や偏見に基づいた事件が海外で起きた場合はすぐ報じるけども、国内で起きた場合はそれに比べて報道されていない。日本のことも海外のことも同じ尺度で測り、報道として扱うべき。
そして同時に、日本国内の暗い面を隠す傾向にあると思う。日本の貧困問題について先日のブログで書いたけども、これは本当に深刻な問題。これを報道しないのは、ジャーナリズムの機能不全と言わざるを得ない。

 

 

それから、勘違いされたくないのは、僕は別に傾向報道を一概に否定しているわけではない。傾向報道でも構わない。けど、そうであるならば徹底してそうあるべきだと思う。一定の価値観と基準に基づいて、固有のスタンダードを持つべき。海外メディアもそれぞれ多様な個性を持っているけども、スタンダードはきちんと固まっているから、社会からもそのメディアのスタンダードはそういうものなんだと正しく認識されている。あたかも平等で中立公正のようなスタンスでそれをするから問題なんだと思う。

 

世界中、どの社会も偏見を持っている。これは日本に限った話ではないし、そうあるものなのだと思う。だけど、メディアがそういう観点から報道しないことは大きな問題。国民の意識を変えようとする努力が見られない。日本メディアはずっと昔から何も変わっていない。社会全体にチャレンジするような代替メディアも生まれていない。

 

僕らの世代から、新しいカタチのメディアが生まれたらいい。

 

【ひとりごと】

メディアが社会を作る。社会がメディアを作る。

 

メディアはどうあるべきか。

 

最近、メディアについてあれこれ考えている。
僕の友達には、春からテレビ局や新聞社などに入社する人が何人かいて、彼らと話すときに必ず話題になるのが日本のメディアが抱える問題。

 

素人なりに、僕も色々と考えてみる。

まず、日本のメディアはいわゆる“エリート”と呼ばれる階級によって支配されている。中枢を担うのは東大・早稲田・慶応出身者ばかりで、みんな同じようなバックグラウンドと価値観ばかり持っている。これは多様性という観点からも当然問題だが、何より問題なのは官僚と同じルーツであるということ、彼らが同窓生であるということ。日本メディアの発信する情報が、政治に対峙するものよりも国民に対峙するものが多いのは、こういう部分にも原因の一端があると思う。
実際、3.11でもウォッチドッグとして全く機能していなかったし、オリンパス事件あたりでも指摘されていた。

 

ただ、これは日本に限った話では無いのかもしれない。アメリカでも、9.11の時に似た状況があったように思う。多くのメディアが愛国主義的に傾き、当時のブッシュ政権への批判がほとんどされなくなった。その結果として、イラク戦争に関する政策に十分な議論や批判が巻き起こらず、政府の暴走を止められなかった。

 

また、多くのメディアは、情報源(官僚など)ごとに専属の担当者を置き、担当となった記者は情報源とフレンドリーな関係を築くことで情報を引き出している。批判的な記事を書くことは、このフレンドリーな関係を壊しかねなく、その後のコンタクトを困難にする可能性がある。政治に対峙できないとなると、代わりに対峙するのが国民になるのは自然な流れ。これが、メディアがウォッチドッグとして機能しないもう一つの理由だと思う。
あるアメリカのジャーナリストは、「ジャーナリストはソース(情報源)に尊敬される必要がある」と言っていた。彼の言葉の真意は、そういうことなのかもしれない。

 

続く。

 

【ひとりごと】

「社会を良くしたい」という気持ちはメディアに携わる者として持って然るべき。

 

選挙が終わって。

 

先週末に選挙が終わりました。これから先の最大4年間、日本の未来を決定する場に集うメンバーが決まったわけです。

 

選挙が終わったあと、国民の国政への関心が薄らぐのは毎回のことであり、今回もきっと多分そうなんでしょう。だけど、それってすごく残念なこと。僕はこれからも国政に注目していきます。

 

投票することは誰かに何かを委ね、任せきりになることではないと思います。自分たちも常に考え続け、常に問い続けることが大切なんでしょう。そうして得られた結果は賛成でも反対でも何でもいいでしょう、物事は常に賛否両論なので。だけど、自分で色んな情報を集めて、考えて、どんなものであってもいいから自分の考えを持っているということ。それが議論につながり、結果として世の中を良い方向に変えていくんだと思います。

 

 

【ひとりごと】

来年は参院選。

 

カテゴリー:自己啓発, 政治 タグ: , ,