アーカイブ

Archive for the ‘国際協力’ Category

「私は日本人だ」が何故撃たれるのか

 

バングラデシュの首都ダッカで7月1日に起きたレストラン襲撃事件。日本人7人を含む22人が殺害された現場は私も訪れたことのあるダッカで外国人に有名なレストラン。

 

犠牲者のうちの一人が「私は日本人だ。撃たないでくれ。」と懇願していたことが目撃情報としてあがっていることもあり、日本人が狙われたという驚きをもって日本国内で報道されていたように思う。

 

類似の事件は世界中で毎日のように起きており、その全てが同様に扱われるべきなのかもしれない。こうした悲劇は比較されるべきものではなく、そうした意味ではダッカでの事件のみが特別にフォーカスされるべきではないのだろう。

 

とはいえ自分に馴染みのある場所で起きた事件には、やはり私も特別に心が動いてしまう。同じくバングラデシュの発展に尽力していた同胞の死には、やはり特別に思うことがある。ということで、「私は日本人だ」について考えてみる。

 

 

 

インターネット上で情報を探していると、「私は日本人だ」に対しての批判的な声が目に付く。日本国籍が安全確保に一役買った一昔前からは明らかに状況は変わってきており、そうした現状の認識不足というのが批判する側の多くが根拠とするものである。

状況変化についてはまさにその通りであり、批判の内容は的外れではないのかもしれない。しかしバングラデシュに住んでいた身からすれば、「私は日本人だ」と叫ぶことは大いに理解できるし、おそらく私がその場にいても同じように叫んだと思う。

 

バングラデシュは驚くほど親日な国であり、日本人であるというだけで特別に親切にされることが多い。バングラデシュに住んだことがある日本人にとって、日本人がバングラデシュ人から敵意をもたれるということは想像することすら難しい。これはおそらく、バングラデシュに限らず中東諸国など他のイスラム圏においても同じだろう。私自身ヨルダンやパレスチナでは多くのムスリムのお世話になったし、彼らは非常に日本に対して良いイメージを抱いていた。2012年にヨルダンからシリアに向かった際、一切の攻撃を受けずに済んだのは日本人であることが要因の一つだったようにも思う。

 

 

では何故、「私は日本人だ」が撃たれるのか。

 

 

遡って考えてみれば、2003年に始まったイラク戦争に日本政府が加担したことが一つの契機であろう。ビン・ラディンは日本を敵視し、彼が率いるアルカイダ、さらにその流れをくむISは日本を攻撃対象と見なすようになった。事実、2013年のアルジェリア天然ガスプラント襲撃事件では、今回のダッカ襲撃と同様にイスラム教徒が解放された一方で日本人は殺害された。

 

潮目をさらに変えたのは、2015年1月の中東歴訪中に安部首相が行った演説であろう。

「ISと戦う国々への2億ドル支援」の表明は、ISへの宣戦布告と位置付けられた。演説直後、シリアでは湯川さん、後藤さん2人の日本人が”戦争捕虜”として拘束・殺害された。続く安保関連法案採択は、かつての非戦国家としての日本のイメージを大きく失うことにつながった。今や日本を軍事国家と見なす人たちは決して少なくない。

以上の歴史的背景から、「私は日本人だ」は身を守る手段としては何の意味も為さなくなっている。

 

 

こうした憂慮すべき現状において、海外で自らの身を守るために何が大切になってくるのか。

 

 

今回、あるいは昨年10月に起きた邦人殺害の場合もそうだったが、援助を目的としてバングラデシュに滞在していた日本人が狙われた。援助のもたらす功罪については以前書いた通りであるが(「誰の、誰による、誰のための開発?」 / 「海外ドナーによる開発援助と被援助国の自助努力は両立し得るのか?」)、日本人の援助を快く思っていないバングラデシュ人は少なくとも私の知る限りはいない。

殺されるべき理由のない日本人が殺害された、言い換えれば、今回の事件が「筋が通らない」と主張することが一つの鍵ではないだろうか。

 

イスラムにおいて殺人は許されるものではないが、それでもISに多くの若者が惹かれる要因の一つはISがその暴力や殺人をジハード(聖戦)として正当化するからであろう。裏を返せば、外国人殺害がジハードとして正当化されなければ、若者の多くをISから遠ざけることができるかもしれない。

 

既に触れたように、彼らにジハードとしての口実を与えたのは2015年の首相演説だった。これは非常に残念な歴史的事実であるが、一方で無視できない事実も存在する。日本は過去、バングラデシュあるいは中東などに軍事的侵略をしたこともなく、ムスリムを殺害したこともない。これは欧米諸国と日本を決定的に分ける事実であり、上述の親日感にも繋がっているのであろう。「ムスリムを殺害していない日本人がジハードの名の下にムスリムを名乗る人間に殺される」不当性こそが、日本が世界に向けて発信すべきことではないだろうか。

 

 

私の提案は理想論かもしれない。平和ボケと言われるかもしれない。他国からの威力に対して話し合いでの解決を主張したSEALDsがかつて大バッシングを受けたことからも分かるように、「武力を以って武力を制する」ことを好む日本人は少なくないのだろう。

 

確かに、ISに対して私の提案が有効とは思わない。しかしISに惹かれる若者の心を動かすには一定の役割を果たせるかもしれない。かつてのアルカイダなどが一部のイスラム過激派で構成されていたのに対して、ISの特徴は世界中からの若者を取り込んでいることにある。最近のホームグロウンテロも元を辿ればそうしたISの特徴に起因する。

 

 

世界の対局を「イスラムvs非イスラム」の二元論で語ってしまいがちな昨今。非常に悲しむべきことに、イスラムを残虐で野蛮な悪と見なす人も少なくない。「イスラムvs非イスラム」の構図は非常に分かりやすいかもしれないが、その構図こそがISにとって非常に都合の良いものであり、多くの若者を惹きつける理由であろう。

 

「武力を以って武力を制する」のではなく、他者理解と平和主義が結局は身を守るための最善の策なのではないだろうか。

 

DSC_0447.JPG

(写真:2012年9月/パレスチナ首都ラマッラー)

同じ目線には立てない

 

「生活レベルが下がるってのは、今まで贅沢だと思っていたことができなくなるのではなくて、今まで当たり前だと思っていたことが贅沢になること。」

 

 

 

数年前に聞いて、以来ずっと心に残っている言葉。
圧倒的に恵まれた日本の環境で育ってきた僕にとって、生活レベルが低いということを具体的に想像することは難しかった。

 

ザンビアでの生活が始まって4ヶ月。
協力隊の本質の一つは、現地のコミュニティの中で、彼らと同じ生活レベルで2年間を過ごすということ。これは他の枠組みの海外派遣ではなかなか得難い経験であり、僕が協力隊を志望した理由の一つでもある。

 

僕が現在住んでいるのは南部州の州都チョマから35kmほど離れた農村地帯。幸いなことにローカルマーケットが近くにあり、果物は無いものの野菜類ならすぐ手に入る環境。肉類を扱う店もあり(牛、鶏、インパラのどれか1種類しか置いてないが)、小さな飲み屋も2軒ほどある。

僕の家には電気・水道が通っているが、停電は毎日のように起こり、断水も頻繁。井戸から水を汲む生活が当たり前。家の前にはブロックと石でかまどを作り、炭と拾ってきた木で火を起こす。冷蔵庫やテレビはもちろん無く、家にあるもので家具と呼べるのは小さな机と椅子、ベッド、一口の電気コンロくらい。朝と昼は適当に自炊し、夜は隣の大家の家で毎晩ご馳走になっている。

 

こうして書くとそれなりに途上国っぽい生活をしているようにも思えるが、やはり決定的に違う部分もある。

パソコン、インターネットはやっぱり手放せない。一眼レフも大切。音質の良いSONYのウォークマンとイヤホン。
そうした点では日本と大して変わらない生活をしていることもあり、生活は非常に楽。ここで2年間生活することは何の問題もない。同じことは、去年バングラデシュで4ヶ月過ごした時にも感じた。

少なからず生活レベルは下がっているのかもしれないが、それも2年間という期限つきだから気にならないのだと思う。あと1年もすれば、停電も断水もなく、綺麗で高品質のものすぐに手に入り、WiFiが早くて電化製品に囲まれた日本の生活に戻れる。仮にこの環境でこの生活を10年、20年、あるいは50年続ける予定だとしたら、もっともっと色んなことがストレスに感じるのかもしれない。あるいは、腹をくくってもっと適応できるのか?

 

 

色んな途上国を自分の足で回り、自分の目で見て、自分の肌で感じてきた。自分に何ができるんだろうと思いを巡らせながら、色んな角度から活動をしてきた。だけどその全てにおいて、自分が所詮”外国人”だというある種のコンプレックスを感じてきた。
いくら日本で学んでも、途上国を一時見て回っても、僕が住むのは先進国。先進国の人間である自分に途上国のことは絶対に分からない、同じ目線には絶対に立てないと思っていた。
だから、協力隊。途上国の環境に2年間住むことで、彼らと生活を共有することで、何か見えるものがあると思った。

 

協力隊任期の折り返しを迎える今感じることは、やっぱり僕は”外国人”だということ。
アフリカの全てが楽しい。一方で、生活も言葉も食事も文化も全て、一番自分に合うのは日本だと分かった。
そして、途上国の人々と想いや感情を共有することはできても、彼らの背負っているものを同じように背負うことはできないと感じた。中途半端な共感は、むしろ”外国人”である自分の違和を強めることにもなる。

 

同じ目線で物事を見ようとすることは非常に大切。
だけどそれと同じくらい、全く同じ目線には立てないという前提からスタートすることも大切なのかもしれない。

 

DSC_2076

最善を願いつつ、最悪に備える

(一部削除・修正を加えました。2015.10.16)

 
 

日本でも報道されているようですが、先日ここバングラデシュで邦人殺害事件が起こりました。

 

バングラデシュの地で志を持って日々を過ごしていたであろう日本人の殺害事件は、まだたった3ヶ月とはいえ同じくバングラデシュで活動をする身として非常に悲しく、また無念でならない。心からご冥福をお祈りいたします。

 

一方で、喪に服しているばかりいるわけにもいかず、自分の身は自分で守らなければならないのも確か。

 

こうした状況の中、記録として、ここまでの経過とそれに対する僕の今の心境を綴っておこうと思います。

 
 

【経過】
 

9月28日夜、首都ダッカでジョギング中のイタリア人がバイクに乗った何者かに銃撃され死亡。ISILバングラデシュを名乗る組織が犯行声明を発表。
現場はJICA事務所から隊員ハウスまでの中間地点。各国大使館などが置かれる外国人が多く住む地域。

 

10月3日午前、北西部ロングプールにおいてリキシャに乗った邦人がバイク3人組の銃撃され死亡。
自分自身も地方巡回活動中だったが、速やかに帰路につく。
夜になってISバングラデシュ支部を名乗る組織が犯行声明を発表。

 

10月4日、自宅待機。自宅に蓄えてあった食料等を食べて過ごす。

10月5日、最悪の場合、そのまま国外退避になる可能性も考えて私物のほぼ全てをパッキングしてダッカへ移動。午後ダッカ到着。
外務省の海外安全情報、警戒レベルが1から2へと引き上げ。

 

10月9日、先にロングプールで拘束されていた容疑者の供述によって、バングラ西部の街ラッシャヒで事件に関与したと思われる2名が新たに拘束される。

 

 

===

 

 

日本ではあまり報道されていなかったようですが、先月28日の事件発生はバングラでは非常に大きなインパクトを持って報道されました。外国人をピンポイントで狙っていたこと、人通りの多いダッカ中心部での出来事だったこと、そしてISの犯行声明が出たこと。

 

バングラで生活する日本人にとってももちろん驚きではありましたが、一方で「あくまでも欧米人、日本人ではない」といった感覚もあったように思います。日本人が欧米人同様に標的となる可能性はかねてから指摘されていましたが、まだその実感がなかった、あるいはその可能性を否定したいという思いがどこかにあったのかと思います。

 

そうこうしているうちの、10月3日。日本人にとっても、あるいはベンガル人にとっても大きな衝撃だったようです。
日本を十字軍同盟の一員として敵視する姿勢をイスラム過激派はイラク戦争以降続けていましたが、上述のように「いずれ起こるかもしれない」というのと、「実際に起きてしまった」の間には大きな違いがありました。

 

協力隊員に与えた影響も当然大きかったように思います。僕を含め「巡回型」と呼ばれる隊員は、今回の事件現場のような農村部を徒歩やリキシャで日々移動しながら活動しています。事件当日、僕も事件現場と同じような場所で活動中に緊急連絡を事務所から頂きました。自分が被害にあっていたかもしれない、ということはやはり考えてしまいます。

 

現在、事件の全貌については分からないことだらけ。
ISの犯行声明こそ出ているものの、その信憑性は不明。バングラ政府は対立野党の仕業ではないかと主張。個人的な恨みなどによる単一的な事件の可能性も捨てきれない。その前のイタリア人殺害についてはさらに不明。ダッカ市内の警戒態勢は強化されているが、事件の続報はほとんどない。

 

 

では、どう考えるか。

 

 

今後の協力隊としての活動の可否については、今回の犯行が何によって行われたかはさほど重要でないように感じます。ISにせよ、野党勢力にせよ、個人的な遺恨によるものにせよ、無差別的であったり金銭目的の事件・事故とは異なり、邦人の命がピンポイントで狙われたという事実は大きく、同様の事件が今後再び起こる可能性は十分考えられる。

 

あわせて厄介なのは、状況の改善を判断するための具体的な基準がないということ。仮に今後1ヶ月、あるいは半年間同様の事件が起きなかったとしても、それでもなお不安は拭いきれない。「いずれ起きるかもしれない」と「実際に起きてしまった」はやはり違う。一度起こってしまった以上、近いうちに再び起こる可能性は今後しばらく捨てきれない。
 

協力隊事業の性質的に、安全が高いレベルで保証されている地域での活動が協力隊員にとって必要となる。
ではこの状況の中で、協力隊事業を続ける価値はどれほどあるのだろうか。

 

縁起の良い話ではないが、隊員が屋外で(特に巡回型で)活動する場合、同様の事件に巻き込まれる可能性は十分に考えられる。

 

そうなった場合、協力隊員はもちろん、場合によってはJICA専門家や民間の駐在員などの即座の国外退避に繋がる可能性がある。そうした悲劇が起きてしまえば、JICAが、特にボランティア事業がこの国で再び再開されるには長い時間が必要となるだろう。

 

また繰り返しになるが、フィールドでの活動に対しての安全を期待できるようになるためには長い時間がかかることが見込まれる。ということは当然、自宅待機が長い間必要となる。そうなると、間違いなく「ちょっとくらいいいか」という気持ちが隊員の中に芽生えてくる。今の状況を長期間に渡って維持するのは、事務所にとっても隊員個人にとっても難しい。

 

そういう状況を考えると、一時帰国あるいは任国変更(派遣国変更)ということが選択肢に入ってきてしまう。

 

 

たった3ヶ月とはいえ、バングラの文化を学び、人々の優しさに触れ、たくさんの問題と可能性を見つけて。ここを離れるのはもちろん寂しい。できることならば、この国で2年間を全うしたいと強く願う。

 

一方で、協力隊員の任期はわずか2年。いつ活動再開できるか分からず、再開後も付きまとう不安。リスクを抱えてまで行うべき活動ではないことは重々承知。

 

ましてや、先にも書いたように、万が一が起こった場合には多くのドナーが撤退し、バングラも大きな不利益を被る。バングラ人やムスリムの優しさを知っているからこそ、彼らに対する偏見がこれ以上広がるのも避けたい。そのためにも撤退を選択肢として考える必要はある。

 

むやみやたらと怯える必要はないけれど、一方で「自分は大丈夫だろう」という根拠のない自信も考えもの。
協力隊員としての立場でここにいる以上、自らが巻き込まれた事件・事故は、バックパッカーが個人的に巻き込まれたそれとは全く異なるもの。

 

不安に耐えながらの活動は一種の満足感をもたらす。しかしそれが自己満足に過ぎないことは認識すべき。僕自身、過去にそうした失敗をしてきたけれど。
また、自分の立場や活動の意義はわきまえる必要もある。ある程度のリスクが不可避な緊急援助等とは異なり、僕らがやっているのは協力隊事業。リスクを負うべき状況なのか、リスクを避けるべき状況なのか、その判断は欠かせない。

 

もちろんこれらは個人の判断や希望だけで決まることではなく、あくまでJICAの判断を仰ぐしかないけれど。

 

 

「最善を願いつつ、最悪に備える」

 

僕にとっての「最善」は、
事態が好転し、以前のように活動を再開してバングラデシュでの2年間を全うすること。
一方で、
国外退避や任国変更といった「最悪」の事態も想定しつつ準備を進める。

 

悲観的でもなく、楽観的でもなく、そんなことを考えながら過ごしています。

 

DSC_0819

 

人口増加と国際協力

 

人口密度が世界一高い国の一つであるバングラデシュ。

 

3ヶ月住んでみて、それを実感する場面は多々ある。兎にも角にも、至る所が人で溢れている。

 

そういった生活の中で頭に浮かぶキーワードは、人口増加。

今日ふと思い出してパソコンの中を探してみたら、ありました。

去年のちょうど今頃、こんなメモを書いたまま、どこにも公開せずに埋もれていました。

今になって読んでみると、自分自身にとっても興味深かったので、今更ながら公開してみます。

 

 

=====
 

人口増加。

 

食物連鎖の頂点にいる人間にとって、天敵と言えるような動物はいない。

現代において、人間の最大の天敵は人間なのかもしれない。

人間の生み出す貧困や紛争が、人間を生命の危機へと追いやる。

そうした危機的状況では乳幼児死亡率が異常に高くなるので、より多くの子孫を残そうとして多産の傾向になる。

そうして、さらに人口が増加する。

 

人類70億人時代を迎えた今になっても人口の増加に歯止めがかかる様子は全くなく、むしろさらに増え続けていくと考えられる。

 

 

資源の枯渇、ゴミ処理問題。

 

先進国での私たちの暮らし。大量の資源とエネルギーを消耗しながら、大量のゴミを排出している。

WWFなどが指摘しているように、現代における私たちの生活スタイル(水準)は、既に地球のキャパシティを大きく超えているのだろう。

数十億年かけてつくられた石油燃料や木材資源など、いわば地球が長い間蓄えてきた”貯金”を利用することで、

一見今の生活が維持できているように思えているが、所詮は貯金の切り崩しでしかない。

いずれ、今のスタイルの限界が来るのは目に見えている。

 

 

僕らが思い描く国際協力とは何だろう。

 

その最終段階が何かを考えたとき、途上国の生活水準が先進国のそれと同等になることをついイメージしてしまいがちである。

 

しかし、上に挙げた二つの理由(人口増加問題と地球のキャパを超えた先進国の生活スタイル)からして、それは不可能なことなのかもしれない。

 

ではどうするか。

 

人口増加を止めるのは非常に難しい。

途上国の貧困や紛争を解決できれば増加の速度を緩めることはできるかもしれないが、止めることはやはり難しいと言わざるを得ない。

仮に止めることができたとしても、”既に多すぎる”のが現状である以上、そこからさらに減らしにかからないといけない。

一度増えた人口を減らすというのには、どれだけの困難を伴うだろうか。

 

ともすれば、先進国の生活スタイルを変えるのが最も現実的、かつ効果的な方法なのかもしれない。

近年中国が、あるいはサブサハラの中でも比較的進んでいるアフリカ諸国が今後主張するであろうに、

そして高度経済成長期の日本がそうであったように、途上国の国々は先進国に追いつけ追い越せと意気込む。

先進国の人たちと同じような生活を営むことに途上国が憧れるのは当然だろうし、そうした豊かな暮らしを目指した”開発”や”援助”も行われている。

 

しかし何度も言うように、現在の先進国の生活スタイルは、先進国に住む今の人数の人たちだけでも十分に地球のキャパを超えている。であるのに、”先進国”がさらに増え、同様の生活を営む人数がさらに増えるとどうなるのか。

 

そういったことを考えていくと、最終段階として私たちが行わなければならないのは「途上国の生活水準を向上させること」ではなく、「先進国の生活水準を下げること」だという結論に達する。

 

 

先進国「環境汚染もひどいし食料も資源も足りないので、途上国は発展の速度を緩めて下さい。いや、これ以上発展しないで下さい。」

 

途上国「過去に同じ過ちを犯してきたお前達になんでそんなこと言われなきゃならいんだ!俺たちにもお前達と同じ生活をさせろ!

 

先進国「…分かりました。私たちの生活水準をここまで下げます。なので、どうかあなた方の発展もここまでにして下さい。」

 

そんな議論が国際社会で繰り広げられる時代がもうすぐ来るのかもしれない。

 

DSC_0323
 

誰の、誰による、誰のための開発?

 

バングラは明日からコルバニーイード(犠牲祭:イスラム教のお祭り。また後日詳しく書きます)の連休ということで、連休前日の今日は多くのベンガル人がザワザワして落ち着きがありません。

また、本来であればそろそろ雨季の終盤のはずなんですが、そんな様子を微塵も感じさせないほどここ数日大雨。

ということで、今日は自宅待機という名の自主休業ということにして、久しぶりに家でゆっくり読書やら考え事やらしてます。

 

 

数年前にどこかの座談会か何かで聞いた話をふと思い出したんですが、

その彼女はNGOを立ち上げてラオスの農村部を対象に数年かけて保健関係の活動をしたそうで。自らも村の中に住み込んで、できるだけ村人と同じ目線で、同じ生活環境を共有するようにして。で、数年経って目に見えるような成果が出てきて。少しずつ余裕が出てきたこともあって、その対象の村だけではなく近隣の他の村も含めて一歩引いた視点に立って広く全体を見てみたそうで。

他の村と自分の村を比較することで、自分のここ数年の成果がよりクリアに見えることを彼女は期待していたそうですが、いざ他の村に目を移した時に感じたことは全く逆だったそうで。

自分が尽力した村と比較して、他の村は衛生環境も良くないし、下痢などの病気も多い、産科系の問題も多い。確かに、彼女の活動は実を結んでいる。けれど、そうした問題を抱えた村でも、間違いなく村の中でサイクルは回っている。いくら病気が多いといっても、人口が減るわけでもない。

自分の村が幸福の村で、他の村が絶望の村。そんなことを期待していたわけではないけれど、思いの外、違いがなかったと。もう少し正確に言えば、自分が数年かけて尽力したことに、どれほど価値があったのか分からなくなったと。

 

人間の安全保障という観点で捉えれば彼女の抱いた思いは少しばかり間違っていて、彼女の活動は間違いなくその村に成果をもたらしたのだろう。だから、そう悲観的に捉えることはない、と彼女に伝えることもできるだろう。

だけど、実際に末端のフィールドレベルで多くの時間と経験を共有した彼女が語るその”無力感”には、大きな説得力があった。

 

 

もう一つ別の、僕自身が体験した話。

 

今年3月、アフリカ東部のソマリランドという国を訪れた。日程や予算の問題もあってわずか3日で隣国エチオピアに戻ってしまったのだけど、その間に見たこと、聞いたことは大きな驚きだった。

 

ソマリランド共和国。1991年にソマリアからの分離・再独立を宣言。憲法や議会などを持ち、独立国家として完全な能力を有していると言われながら、日本やアフリカ連合を含む国際社会は未だに独立国として承認しておらず、ソマリアの一部と見なされている。(この背景としては、多くのアフリカ諸国が自国内に抱える民族独立運動の好例を与えてしまうことで運動が活性化することを恐れていることが一つ。詳細は割愛。)

国家として承認されていないため、ソマリランドは国際社会からの援助を全く受けられていない。天然資源は埋蔵が確認されているらしいが、現状採掘には取りかかれていない。特にこれといった産業もなく、畜産などの一次産業が中心。

 

そんな国だから、国の内情はさぞかし酷いんだろうと思って入国したが、首都に着いてまず驚いたのは街がすごく綺麗。ゴミが全然落ちていない。

ソマリランド人と話してまた驚いたのは、彼らの自国に対する誇り。単なる愛国心ではなく、自分たちの手でこの国を作り上げてきたという強烈な自負を持っている。だから道端にゴミを捨てることもなく、街中は当然綺麗に保たれる。

たいていの途上国では自国政府に対する不満を持つ人も多い。政府が悪いから、政府がやってくれないから。そんな言葉をよく聞く。けれどソマリランドではそんな言葉は一度も聞かなかった。政府と国民が一枚岩になって前に進んでいるような印象だった。

他国の援助に頼れない分、24年かけて安定したインフラ、汚職のない警察・軍、そしてゆっくりではあるが確実な経済成長を成し遂げてきたソマリランド。

 

対して、ここバングラデシュはどうだろう。多くの海外ドナーが入り込み、急速な経済成長が進んでいるように見える反面、開発という言葉の裏では国際社会の色んな思惑が渦巻いている。日系を含む海外企業も多数進出しており、多くのバングラ人が使い捨ての労働力として消費されている。警察も軍も、多くの政府系機関でも汚職が横行。

バングラ人自身も国内の多くの問題を認識はしているものの、「ここはバングラだからしょうがない」の一言で済ましてしまう。何かトラブルがあれば、政府(あるいは神様)のせいにする。

バングラ人が悪いと言っているのではなく、そりゃそうなるでしょうよ、ということ。自分たちが頑張る前に、良く分からないうちに海外から良く分からない人たちが入ってきて、良く分からないけどとりあえず良さ気な感じのことをしてくれてきたんだもの。自国の経済レベルや成長スピードを大きく超えた”援助”が大量に流れ込んでくれば、政治家だって道を誤るだろうし、国民だって誰か自分以外の何かに期待したくなる。

 

 

全然異なる二つの話だけれど、共通して僕に問いかけてくるのは「開発における国際社会の介入の必要性」。

 

僕らが良かれと思ってやることは、大きなお世話になってないだろうか。

確実な成果があったとして、果たしてその成果は必要なものなのだろうか。

一見して良い成果を生んでいるように見えて、その裏でそれ以上の問題を生んでいないだろうか。

 

よそ者が勝手に入ってきて、勝手に開発を進めて、勝手に問題を生んで、その問題をまた勝手に解決しようとする。

そんなことは、絶対にあってはならない”はず”。

 

国の発展はその国の国民が担うべき。そんな当たり前のことが、何より難しいのかもしれない。

せっかく協力隊で来ている以上、そういう地味だけど普遍的なことを大切にしないと。

 

DSC_0086

*ソマリランドの首都ハルゲイザの中心部。警察官(右)は真面目に交通整理、ドライバーの運転マナーも良い。道にはゴミが落ちてない。

 

 

何しに来たんだっけ?

  

バングラデシュに来てもうすぐ3ヶ月。任地コミラに来てからは2ヶ月。

 

今までの海外が常に短期での渡航だった僕にとって、1ヶ月を超える滞在は未知なものでした。

 

しかし住んでしまえば何てこともない、ゲストハウス住まいの短期渡航とは違って自分の家があるという安心感も手伝って、ここまでは大きな不自由もなく過ごしています。

 

一方でベンガル語レベルは相変わらず低いまま。僕の職種柄、活動関係者には医者をはじめ医療のバックグラウンドを持っていたり、あるいは修士や博士まで出ているいわゆるエリート層が多いこともあり、わりと英語が通じちゃう。

 

これが良くないんですね。困ったら英語に逃げれちゃうもんだから、ベンガル語が伸びない。

しかも都合良くベンガル語の文法の中に英単語入れて話したりするもんだから、だんだん自分が何語話してるか分からなくなってきて肝心の英語力まで低下してくる始末。

 

そんなことしてるから、地方に行って(ほぼ毎日行ってます)田舎の村人と話す時苦労してます。

活動関係の話なら単語もある程度分かるし、分からなくても推測できますが、何より雑談が一番苦手。単語力が圧倒的に足りないのに加えて、ヒアリングも一般的なベンガル人の会話スピードに耳が慣れてないもんだから、全然話が理解できない。

 

でも雑談ができないと関係性が深まらないんですね。「日本から来た偉い人」っていう認識のされ方をなかなか抜け出せなくて、「同じ立場に立って物事を考えてくれる人」になれない。

 

そんなこんなで自分の中にもたくさん問題があることを認識しつつ、そうした自分の問題を棚に上げて、自分は何しに協力隊に来たんだろうと考えていたり。

 

僕は今までアフリカ中心に渡航してきたこともあり、希望国は全て西〜中央アフリカで出しました。

 

そうした背景もあって、自分の中でのもともとの協力隊のイメージというのは、何もフィールドで砂埃にまみれながら、JICAって何かよう分からんけどとりあえずこいつは良い奴だなと思われながら、村人と一緒にあーでもないこーでもないと言って共に失敗しながら何かしら小さなものでもいいから生み出せれば、といったもの。

 

これまでの途上国での活動の中で、「日本から来た偉い人」「すごい人」と認識されることにすごく抵抗があって、もっともっとフィールドで同じ目線に立ちたくて。そういう風に認識してもらいたくて。

現場の声を無視した政治的なきな臭さが拭えない国際協力や、国民ではなく政府関係者の顔色を伺いながらの国際社会のあり方に大きな疑問を抱いて。

開発とか人間の安全保障とか国際保健医療とか、そういったことを教科書的に学んでもピンと来なくて。何か大切なものを置き去ってしまいそうな気がして。

 

だからそういった小難しいことを一旦置いて、自分の目の前の人にとって大切なものは何か、自分ができることは何なのか、そんなことを考えたくて、そんなことをしたくて協力隊を志望した。

 

だけど現状は全く違うもので。朝早くからフィールドに出掛けてはいるものの、やっていることと言えばWHOやUNICEFなどの国際機関が関わる国際事業、予防接種拡大計画の一端を担うもの。要請内容から色々とはみ出してみたりはしているものの、結局は既存の枠組みから抜け出せていない。

学校保健や環境教育にも手を出し始めてはいるものの、これもまた中途半端。

じゃあ夜はというと、6階建アパートの最上階にある自室で人間の安全保障とかMDGsのこととか考えていたり。

 

バングラという国は、国際協力に関して世界の縮図だという話を何度か聞いた。確かに官民問わず数多くの名だたるドナーがバングラに入ってきていて、国際社会の色んな思惑が渦巻く中で開発が進んでいる。先進国の利益追求によって、耐えられないほどの環境汚染が起きているのも典型的。

 

バングラに住んでいると、良くも悪くも開発に関して学ぶ機会が溢れている。

 

そういった環境の中で(そのせいにしたくはないけれど)、結局自分がやっていることは日本にいる時とあまり変わらないなと思う。現場に根付く、草の根って想像以上に難しい。

 

冒頭に書いたように、「大きな不自由なく」生活してきた3ヶ月。あと1年9ヶ月を如何に過ごすか考えないといけない。

 

DSC_0424

 

【ひとりごと】

生活レベルを下げる、って本当に難しい。身をもって感じている。

他人の人生に干渉するということ

 

良かれと思って行う国際協力が結果として迷惑にしかならないことがある、だから事前の準備をしっかり行う必要がある、という話を前に書いた。

けれど実際、どれだけ準備をして色んなことを想定しても、それらの準備や想定を超えてやっぱり迷惑になってしまうこともある。結局、確率の問題にすぎない。

 

バングラでの感染症対策という具体的な未来が決まってから、大きなワクワクの一方で実は怖さも感じている。

 

「他人の生活を良くする」と言えば聞こえはいいけども、結局のところそれはつまり「他人の人生への干渉」である。文化も宗教も生活習慣も異なる人たちの人生に干渉するというのは、本当に覚悟がないとできないと最近強く思う。

プロジェクトの成否を測るためには死亡率とか感染率とかの統計データ、つまり数字が重要となるけれど、そういった一面的なものだけではなく、その人のバックグラウンドを尊重しながら、生活を図る独自の尺で求めていかなければならない。人生を長くすることではなく、人生を豊かにすることを考えると、”自分”と”他人”という壁はすごく大きく感じる。

 

Ougagouiya_children

違えた道を歩めども志は共鳴する。

 
学生生活の間で国際協力をやっていても、卒業後は全く違う道に行く人は多い。

そうした進路決定に対して、後ろめたさを感じたり、否定的な感情が生まれる人もいるのかもしれないけれど、選択は人それぞれであって、僕はその全てをリスペクトしたい。
それに何より、海外に行ったり直接国際協力に関わったりせず、国内に残ったり、資本主義経済の中で生産活動に従事したとしても、そうした人だからこそ果たせる役割があると思う。

 

消費者として。企業人として。市民として。

 

どこでも、誰でもやれるということ。

選んだ道こそ違えども、共に描いた夢は、共に追い求め続けたい。共に描き続けるということ、共に関わり続けるということ。

 

“I think one’s feelings waste themselves in words; they ought all to be distilled into actions which bring results.”

Florence Nightingale

エルサレム_旧市街

カテゴリー:国際協力, 人生、生き方 タグ:

キャリアとしての青年海外協力隊

 

国際協力に関わるキャリアパスを描く上で考えること、第4回。

国際協力を仕事としてやろうと思うと、前の記事に書いたように国連系・政府系・民間NGOが主な選択肢となる。そのいずれにおいても、基本的に必要となる3要件がある。

 

1.語学力

言わずもがな。英語は当然、もう一言語、できれば英語以外の国連公用語(フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語、アラビア語)が話せると良い。自分の関心が強い地域で使われている言語を選ぶのがいいかもしれない(南米ならスペイン語、中東ならアラビア語、みたいに)。ちなみに、JICAはアフリカを特に重視して多くのプロジェクトを抱えているので、迷ったら、あるいはアフリカを選択肢として考えているのであればフランス語がオススメ。

 

2.海外(途上国)での活動経験

途上国のフィールドで働きたいと思うのであれば、ほぼ必須。バックパッカーなどの旅行ではなく、特定の国・地域に根付いての活動経験。2年以上。
途上国で働くと簡単に言うけれど、実際は活動する以前に生活していくだけでも大変で、誰にでもできるわけではないので、プロジェクトの継続を担保するために求められて当然の経験。ちなみに個人的には、たとえ途上国経験が求められないキャリアであったとしても、そうした経験をしておくべきだと思ってる。

 

3.専門性

意外と忘れがちだけど、非常に重要。限られた環境の中で、自分がイニシアチブを握って実際に何ができるかということ。修士・博士が求められたり、あるいは医療関係の場合は臨床経験何年とか。

 

で、そうした世界でこれからキャリアを築いていくことを考えた時、やはり魅力的なのは青年海外協力隊。
協力隊の任期は基本2年間で、かつ派遣前には国内での2ヶ月の語学研修、派遣後にも現地でさらにimproveできる。こうして上述の1と2の要件を満たしながら、かつ金銭的にも恵まれている。NGOなどの公募で海外派遣される場合、多くの場合は無給、場合によっては航空券代なども全て自費負担だったりするのに対して、協力隊では2年間で約200万円もらえる。これは帰国時に次のキャリアを構築していく上での元資金にもなり、例えば大学院へ進学して博士号を取りにいくこともできる。

 

要するに、「海外で働きたいです!」と思っても、言葉が話せなかったり、海外で生活した経験がなかったり、役に立てるだけの能力がなければ、働けるわけではないということ。国内で企業就職とかするのであれば、入社後に研修があったり先輩に教えてもらえたりするけど、そういうわけではないということ。

だから、自分でそうした能力だったり経験を積まなければならない。30歳くらいまでは、そうやって「力を蓄える」ことに重点を置く必要があって、そのためには人脈やコネクションも非常に重要となる。

たとえば国連インターンに行きたいと思った場合、表向きには公募制となっているけれど、実際は国連関係に強力なパイプを持っている人の紹介がないと非常に厳しい。大学院に行くにしても、院卒業後のキャリアを考えるとアメリカ・イギリスの院がコネクション的には圧倒的なアドバンテージを持っていて、そこに入るためにも推薦状とかが重要だったりする。

 

自分が将来どういう分野でキャリアを築いていくか分からない以上、多くの分野で人の繋がりを作りながら、かつ自分自身をimproveさせていかないといけない。

 

まとめ。語学力、途上国経験、専門性が大切。協力隊は大学卒業後のファーストキャリアとして価値が高い。

1175121_711879325496282_112587162_n (1)

自己満足と客観性

  

国際協力に関わるキャリアパスを描く上で考えること、第3回。

 

今回は今までのキャリアパスを描く上で、という話ではなく、キャリアパスを描こうと思うかどうか、つまり国際協力を仕事として続けていこうと思う前提になる段階の話。

 

大学生が国際協力をやっていて、ぶつかることの多い問題の一つが「国際協力って自己満足じゃないの?」という問い。

他人からぶつけられることもあるし、自分の中から沸き上がってくることもある。あるいは本人は気付いていなくても、「途上国で何かでっかいことやりたい、弱い人を助けてやりたい、偉いことやりたい、難しいことはよく分からんけどやってやったぜ的なのしたい」みたいな感じで自己満足100%で突っ走ってる人も多い(僕が国際協力系の学生団体を早々に辞めたのは、こうした人の多さに幻滅したのが一つの理由だったりする)。

こうした疑問を自分の中でどう扱うかというのは結構難しい。国際協力を行う必要がある理由ってのは僕の中にもいくつかあるけれど、国際協力に限らずどんな仕事・活動でも「やるべき理由」ってのはいくらでもあるだろうし、後付けもできる。

 

だから僕は、国際協力が自己満足であることは否定できないと思う。だけど、普通の自己満足とは異なる性質のものだとも思う。

 

国際協力の場合は、良かれと思って、途上国のためになると思ってやることが、結果的に逆効果になったりする。これは別に学生団体とかだけの話じゃなくて、国連や政府も同様の(かつ大規模な)失敗をしたりもしている。事前の準備不足で行う国際協力は、自分たちが満足したかどうかは別として、現地の人にとっては迷惑でしかなかったりする。

 

色んな国際機関が出している統計データなどを参考にして、周辺地域で類似の活動をしている組織とコミュニケーションを取って、地域の実力者から社会的弱者まで広くニーズを聞いて、持続可能性も十分検討して、そういう準備をしっかり行ってから始めることで、自分の自己満足だけでなく、他人の満足にも繋がる可能性が高まるし、むしろそうでなければならない。

自己満足のために結果として人に迷惑をかけないように、人の満足に対して自己が満足できるように、そういった意味で、運動したいからサッカーするとか、起業したいから起業するとか、そういった種の自己満足と国際協力に関わる自己満足は異なるべきものであると僕は理解している。

 

【ひとりごと】

自分の心に忠実に。一方で、客観的な視点で妥当性をもって進めていくことも大切。

DSC_0120

カテゴリー:国際協力 タグ: , ,