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Archive for 2016年7月

「私は日本人だ」が何故撃たれるのか

 

バングラデシュの首都ダッカで7月1日に起きたレストラン襲撃事件。日本人7人を含む22人が殺害された現場は私も訪れたことのあるダッカで外国人に有名なレストラン。

 

犠牲者のうちの一人が「私は日本人だ。撃たないでくれ。」と懇願していたことが目撃情報としてあがっていることもあり、日本人が狙われたという驚きをもって日本国内で報道されていたように思う。

 

類似の事件は世界中で毎日のように起きており、その全てが同様に扱われるべきなのかもしれない。こうした悲劇は比較されるべきものではなく、そうした意味ではダッカでの事件のみが特別にフォーカスされるべきではないのだろう。

 

とはいえ自分に馴染みのある場所で起きた事件には、やはり私も特別に心が動いてしまう。同じくバングラデシュの発展に尽力していた同胞の死には、やはり特別に思うことがある。ということで、「私は日本人だ」について考えてみる。

 

 

 

インターネット上で情報を探していると、「私は日本人だ」に対しての批判的な声が目に付く。日本国籍が安全確保に一役買った一昔前からは明らかに状況は変わってきており、そうした現状の認識不足というのが批判する側の多くが根拠とするものである。

状況変化についてはまさにその通りであり、批判の内容は的外れではないのかもしれない。しかしバングラデシュに住んでいた身からすれば、「私は日本人だ」と叫ぶことは大いに理解できるし、おそらく私がその場にいても同じように叫んだと思う。

 

バングラデシュは驚くほど親日な国であり、日本人であるというだけで特別に親切にされることが多い。バングラデシュに住んだことがある日本人にとって、日本人がバングラデシュ人から敵意をもたれるということは想像することすら難しい。これはおそらく、バングラデシュに限らず中東諸国など他のイスラム圏においても同じだろう。私自身ヨルダンやパレスチナでは多くのムスリムのお世話になったし、彼らは非常に日本に対して良いイメージを抱いていた。2012年にヨルダンからシリアに向かった際、一切の攻撃を受けずに済んだのは日本人であることが要因の一つだったようにも思う。

 

 

では何故、「私は日本人だ」が撃たれるのか。

 

 

遡って考えてみれば、2003年に始まったイラク戦争に日本政府が加担したことが一つの契機であろう。ビン・ラディンは日本を敵視し、彼が率いるアルカイダ、さらにその流れをくむISは日本を攻撃対象と見なすようになった。事実、2013年のアルジェリア天然ガスプラント襲撃事件では、今回のダッカ襲撃と同様にイスラム教徒が解放された一方で日本人は殺害された。

 

潮目をさらに変えたのは、2015年1月の中東歴訪中に安部首相が行った演説であろう。

「ISと戦う国々への2億ドル支援」の表明は、ISへの宣戦布告と位置付けられた。演説直後、シリアでは湯川さん、後藤さん2人の日本人が”戦争捕虜”として拘束・殺害された。続く安保関連法案採択は、かつての非戦国家としての日本のイメージを大きく失うことにつながった。今や日本を軍事国家と見なす人たちは決して少なくない。

以上の歴史的背景から、「私は日本人だ」は身を守る手段としては何の意味も為さなくなっている。

 

 

こうした憂慮すべき現状において、海外で自らの身を守るために何が大切になってくるのか。

 

 

今回、あるいは昨年10月に起きた邦人殺害の場合もそうだったが、援助を目的としてバングラデシュに滞在していた日本人が狙われた。援助のもたらす功罪については以前書いた通りであるが(「誰の、誰による、誰のための開発?」 / 「海外ドナーによる開発援助と被援助国の自助努力は両立し得るのか?」)、日本人の援助を快く思っていないバングラデシュ人は少なくとも私の知る限りはいない。

殺されるべき理由のない日本人が殺害された、言い換えれば、今回の事件が「筋が通らない」と主張することが一つの鍵ではないだろうか。

 

イスラムにおいて殺人は許されるものではないが、それでもISに多くの若者が惹かれる要因の一つはISがその暴力や殺人をジハード(聖戦)として正当化するからであろう。裏を返せば、外国人殺害がジハードとして正当化されなければ、若者の多くをISから遠ざけることができるかもしれない。

 

既に触れたように、彼らにジハードとしての口実を与えたのは2015年の首相演説だった。これは非常に残念な歴史的事実であるが、一方で無視できない事実も存在する。日本は過去、バングラデシュあるいは中東などに軍事的侵略をしたこともなく、ムスリムを殺害したこともない。これは欧米諸国と日本を決定的に分ける事実であり、上述の親日感にも繋がっているのであろう。「ムスリムを殺害していない日本人がジハードの名の下にムスリムを名乗る人間に殺される」不当性こそが、日本が世界に向けて発信すべきことではないだろうか。

 

 

私の提案は理想論かもしれない。平和ボケと言われるかもしれない。他国からの威力に対して話し合いでの解決を主張したSEALDsがかつて大バッシングを受けたことからも分かるように、「武力を以って武力を制する」ことを好む日本人は少なくないのだろう。

 

確かに、ISに対して私の提案が有効とは思わない。しかしISに惹かれる若者の心を動かすには一定の役割を果たせるかもしれない。かつてのアルカイダなどが一部のイスラム過激派で構成されていたのに対して、ISの特徴は世界中からの若者を取り込んでいることにある。最近のホームグロウンテロも元を辿ればそうしたISの特徴に起因する。

 

 

世界の対局を「イスラムvs非イスラム」の二元論で語ってしまいがちな昨今。非常に悲しむべきことに、イスラムを残虐で野蛮な悪と見なす人も少なくない。「イスラムvs非イスラム」の構図は非常に分かりやすいかもしれないが、その構図こそがISにとって非常に都合の良いものであり、多くの若者を惹きつける理由であろう。

 

「武力を以って武力を制する」のではなく、他者理解と平和主義が結局は身を守るための最善の策なのではないだろうか。

 

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(写真:2012年9月/パレスチナ首都ラマッラー)

同じ目線には立てない

 

「生活レベルが下がるってのは、今まで贅沢だと思っていたことができなくなるのではなくて、今まで当たり前だと思っていたことが贅沢になること。」

 

 

 

数年前に聞いて、以来ずっと心に残っている言葉。
圧倒的に恵まれた日本の環境で育ってきた僕にとって、生活レベルが低いということを具体的に想像することは難しかった。

 

ザンビアでの生活が始まって4ヶ月。
協力隊の本質の一つは、現地のコミュニティの中で、彼らと同じ生活レベルで2年間を過ごすということ。これは他の枠組みの海外派遣ではなかなか得難い経験であり、僕が協力隊を志望した理由の一つでもある。

 

僕が現在住んでいるのは南部州の州都チョマから35kmほど離れた農村地帯。幸いなことにローカルマーケットが近くにあり、果物は無いものの野菜類ならすぐ手に入る環境。肉類を扱う店もあり(牛、鶏、インパラのどれか1種類しか置いてないが)、小さな飲み屋も2軒ほどある。

僕の家には電気・水道が通っているが、停電は毎日のように起こり、断水も頻繁。井戸から水を汲む生活が当たり前。家の前にはブロックと石でかまどを作り、炭と拾ってきた木で火を起こす。冷蔵庫やテレビはもちろん無く、家にあるもので家具と呼べるのは小さな机と椅子、ベッド、一口の電気コンロくらい。朝と昼は適当に自炊し、夜は隣の大家の家で毎晩ご馳走になっている。

 

こうして書くとそれなりに途上国っぽい生活をしているようにも思えるが、やはり決定的に違う部分もある。

パソコン、インターネットはやっぱり手放せない。一眼レフも大切。音質の良いSONYのウォークマンとイヤホン。
そうした点では日本と大して変わらない生活をしていることもあり、生活は非常に楽。ここで2年間生活することは何の問題もない。同じことは、去年バングラデシュで4ヶ月過ごした時にも感じた。

少なからず生活レベルは下がっているのかもしれないが、それも2年間という期限つきだから気にならないのだと思う。あと1年もすれば、停電も断水もなく、綺麗で高品質のものすぐに手に入り、WiFiが早くて電化製品に囲まれた日本の生活に戻れる。仮にこの環境でこの生活を10年、20年、あるいは50年続ける予定だとしたら、もっともっと色んなことがストレスに感じるのかもしれない。あるいは、腹をくくってもっと適応できるのか?

 

 

色んな途上国を自分の足で回り、自分の目で見て、自分の肌で感じてきた。自分に何ができるんだろうと思いを巡らせながら、色んな角度から活動をしてきた。だけどその全てにおいて、自分が所詮”外国人”だというある種のコンプレックスを感じてきた。
いくら日本で学んでも、途上国を一時見て回っても、僕が住むのは先進国。先進国の人間である自分に途上国のことは絶対に分からない、同じ目線には絶対に立てないと思っていた。
だから、協力隊。途上国の環境に2年間住むことで、彼らと生活を共有することで、何か見えるものがあると思った。

 

協力隊任期の折り返しを迎える今感じることは、やっぱり僕は”外国人”だということ。
アフリカの全てが楽しい。一方で、生活も言葉も食事も文化も全て、一番自分に合うのは日本だと分かった。
そして、途上国の人々と想いや感情を共有することはできても、彼らの背負っているものを同じように背負うことはできないと感じた。中途半端な共感は、むしろ”外国人”である自分の違和を強めることにもなる。

 

同じ目線で物事を見ようとすることは非常に大切。
だけどそれと同じくらい、全く同じ目線には立てないという前提からスタートすることも大切なのかもしれない。

 

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