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誰の、誰による、誰のための開発?

 

バングラは明日からコルバニーイード(犠牲祭:イスラム教のお祭り。また後日詳しく書きます)の連休ということで、連休前日の今日は多くのベンガル人がザワザワして落ち着きがありません。

また、本来であればそろそろ雨季の終盤のはずなんですが、そんな様子を微塵も感じさせないほどここ数日大雨。

ということで、今日は自宅待機という名の自主休業ということにして、久しぶりに家でゆっくり読書やら考え事やらしてます。

 

 

数年前にどこかの座談会か何かで聞いた話をふと思い出したんですが、

その彼女はNGOを立ち上げてラオスの農村部を対象に数年かけて保健関係の活動をしたそうで。自らも村の中に住み込んで、できるだけ村人と同じ目線で、同じ生活環境を共有するようにして。で、数年経って目に見えるような成果が出てきて。少しずつ余裕が出てきたこともあって、その対象の村だけではなく近隣の他の村も含めて一歩引いた視点に立って広く全体を見てみたそうで。

他の村と自分の村を比較することで、自分のここ数年の成果がよりクリアに見えることを彼女は期待していたそうですが、いざ他の村に目を移した時に感じたことは全く逆だったそうで。

自分が尽力した村と比較して、他の村は衛生環境も良くないし、下痢などの病気も多い、産科系の問題も多い。確かに、彼女の活動は実を結んでいる。けれど、そうした問題を抱えた村でも、間違いなく村の中でサイクルは回っている。いくら病気が多いといっても、人口が減るわけでもない。

自分の村が幸福の村で、他の村が絶望の村。そんなことを期待していたわけではないけれど、思いの外、違いがなかったと。もう少し正確に言えば、自分が数年かけて尽力したことに、どれほど価値があったのか分からなくなったと。

 

人間の安全保障という観点で捉えれば彼女の抱いた思いは少しばかり間違っていて、彼女の活動は間違いなくその村に成果をもたらしたのだろう。だから、そう悲観的に捉えることはない、と彼女に伝えることもできるだろう。

だけど、実際に末端のフィールドレベルで多くの時間と経験を共有した彼女が語るその”無力感”には、大きな説得力があった。

 

 

もう一つ別の、僕自身が体験した話。

 

今年3月、アフリカ東部のソマリランドという国を訪れた。日程や予算の問題もあってわずか3日で隣国エチオピアに戻ってしまったのだけど、その間に見たこと、聞いたことは大きな驚きだった。

 

ソマリランド共和国。1991年にソマリアからの分離・再独立を宣言。憲法や議会などを持ち、独立国家として完全な能力を有していると言われながら、日本やアフリカ連合を含む国際社会は未だに独立国として承認しておらず、ソマリアの一部と見なされている。(この背景としては、多くのアフリカ諸国が自国内に抱える民族独立運動の好例を与えてしまうことで運動が活性化することを恐れていることが一つ。詳細は割愛。)

国家として承認されていないため、ソマリランドは国際社会からの援助を全く受けられていない。天然資源は埋蔵が確認されているらしいが、現状採掘には取りかかれていない。特にこれといった産業もなく、畜産などの一次産業が中心。

 

そんな国だから、国の内情はさぞかし酷いんだろうと思って入国したが、首都に着いてまず驚いたのは街がすごく綺麗。ゴミが全然落ちていない。

ソマリランド人と話してまた驚いたのは、彼らの自国に対する誇り。単なる愛国心ではなく、自分たちの手でこの国を作り上げてきたという強烈な自負を持っている。だから道端にゴミを捨てることもなく、街中は当然綺麗に保たれる。

たいていの途上国では自国政府に対する不満を持つ人も多い。政府が悪いから、政府がやってくれないから。そんな言葉をよく聞く。けれどソマリランドではそんな言葉は一度も聞かなかった。政府と国民が一枚岩になって前に進んでいるような印象だった。

他国の援助に頼れない分、24年かけて安定したインフラ、汚職のない警察・軍、そしてゆっくりではあるが確実な経済成長を成し遂げてきたソマリランド。

 

対して、ここバングラデシュはどうだろう。多くの海外ドナーが入り込み、急速な経済成長が進んでいるように見える反面、開発という言葉の裏では国際社会の色んな思惑が渦巻いている。日系を含む海外企業も多数進出しており、多くのバングラ人が使い捨ての労働力として消費されている。警察も軍も、多くの政府系機関でも汚職が横行。

バングラ人自身も国内の多くの問題を認識はしているものの、「ここはバングラだからしょうがない」の一言で済ましてしまう。何かトラブルがあれば、政府(あるいは神様)のせいにする。

バングラ人が悪いと言っているのではなく、そりゃそうなるでしょうよ、ということ。自分たちが頑張る前に、良く分からないうちに海外から良く分からない人たちが入ってきて、良く分からないけどとりあえず良さ気な感じのことをしてくれてきたんだもの。自国の経済レベルや成長スピードを大きく超えた”援助”が大量に流れ込んでくれば、政治家だって道を誤るだろうし、国民だって誰か自分以外の何かに期待したくなる。

 

 

全然異なる二つの話だけれど、共通して僕に問いかけてくるのは「開発における国際社会の介入の必要性」。

 

僕らが良かれと思ってやることは、大きなお世話になってないだろうか。

確実な成果があったとして、果たしてその成果は必要なものなのだろうか。

一見して良い成果を生んでいるように見えて、その裏でそれ以上の問題を生んでいないだろうか。

 

よそ者が勝手に入ってきて、勝手に開発を進めて、勝手に問題を生んで、その問題をまた勝手に解決しようとする。

そんなことは、絶対にあってはならない”はず”。

 

国の発展はその国の国民が担うべき。そんな当たり前のことが、何より難しいのかもしれない。

せっかく協力隊で来ている以上、そういう地味だけど普遍的なことを大切にしないと。

 

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*ソマリランドの首都ハルゲイザの中心部。警察官(右)は真面目に交通整理、ドライバーの運転マナーも良い。道にはゴミが落ちてない。

 

 

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  1. 07/20/2016 05:46

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