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Archive for 2013年7月

対岸の火事では済まされない。

 

すでに多くの人が関連内容を投稿していますが、突如飛び込んできた「狂犬病の人での感染例が台湾で確認された_という話。

http://m.chinapost.com.tw/taiwan/2013/07/24/384578/Man-in.htm

獣医学関係者の中で「まさか台湾で…!」と思う人はほとんどいないわけで、「ついに台湾でも…!」が正しいリアクションでしょう。これは日本においても同じであって、たとえ明日日本国内で発生したとしても「ついに我が国も…」と言わざるを得ないでしょう。

発症後の致死率が100%と言われる非常に希有な感染症である狂犬病。さらにやっかいなのはその宿主域の広さ。犬だけかと思いきや人はもちろん、アライグマやコウモリ、あるいは猫も、全ての哺乳類が感染します。一度蔓延すれば、その収拾には莫大な時間と労力…を費やしても非常に難しいでしょう。
その一方で、日本国内の現状は、いつ狂犬病が蔓延してもおかしくない状態。国内の犬の狂犬病ワクチン接種率は厚労省の発表では70%越えとされているものの、実際には50%未満だと考えられている。一般的には70%以上の接種率が必要とされていることを考えても、非常に危機的な数字だと思います。というかそもそも、犬の狂犬病予防接種は義務ですから。
さらに、海外からの貿易船に乗組員の飼い犬やら野良犬やらが乗っているケースが報告されていたり、あるいは輸送コンテナ内に犬が閉じ込められていて国内でコンテナを開けた際に逃げ出した、なんてケースも近年起きています。

繰り返すようですが、狂犬病はいつ日本で発生してもおかしくないと考えるべきでしょう。そう考えた際に不安に思うのは、発生時の緊急対応です。実際2010年の口蹄疫発生時には、発生時の緊急対応については文言としては昔から定められていたようですが、実際のところ具体的にどういう基準のもとにどう対応するべきかが定められていなかったことが、初動の遅れと現場の混乱の一因となりました。狂犬病においても同様の事態にならないか、今一度考えるべきなんでしょう。

そして何より、人間と野生動物の関わり方も考えないといけない。これは狂犬病に限らず、多くの人獣共通感染症に通じて言えることでしょう。

獣医学生や獣医師はもちろん、専門知識をもつそうした人たちが中心となって、今一度みんなで考えるべきことだと思います。

 

【ひとりごと】

人用のワクチンは世界的に慢性的な不足状態だったりする。

 

すごくモヤモヤしてたりする。

 

アフリカに行くと決めてから、少しずつではあるけども改めてアフリカのことを学んでいる。特に気になるのは、やはり来月行く西アフリカのこと。西アフリカを見た人たちの言葉に触れてみたりもする。そうして浮かんでくるイメージは、先進国に住む僕の周りに渦巻くものとは全く異なるもの。

 

大航海時代が始まった15世紀以降、ヨーロッパにとってアフリカは畏敬の対象でもあり、一方で見下し、利用するだけの場所でもあった。それはヨーロッパに限らず、国家の近代化を西洋に倣って進めてきた日本においても、そうした考えは強いように思う。
当時アフリカで最も利用価値があった資源は”人間”だったという話も聞いたけども、実際のところ南北アメリカでの金鉱山の開発や大規模プランテーション農業を支える労働力はアフリカからの奴隷であった、というのも事実らしい。それは結果として西洋、特にイギリスに豊富な資金をもたらし、その結果として産業革命が起こりえた。こうした奴隷貿易において、アフリカ大陸全土で2千万人から4千万人が亡くなったと考えられており、これが本当であれば人類史上最大のジェノサイドだと僕は思う。17世紀に入ってからは西洋諸国はアフリカに広がる広大な土地も利用し始めた。その過程で地理形状や部族・宗教の分布を無視した機械的な線引きが行われ、それが結果として今に続く紛争の大きな原因となっている。そして20世紀に入るとアフリカは東西冷戦の代理戦争の地となり、その終結後は「代理戦争時代に流入した大量の武器」と「機械的な線引きによって生じた民族・宗教問題」を背景とした泥沼の紛争状態に突入した。

これが、近年のおおまかなアフリカの歴史。はっきり言って、もう無茶苦茶だと思う。こんな言葉で簡単に表していいものではないけども、それでもやっぱりそう思う。

ただ、人間性の喪失と人間社会の分断によって先進国が進歩しえたとするならば、アフリカはその対極にある。ということはつまり、先進国が抱える多くの問題は、アフリカが長年守り続けてきた文化や生き方にヒントがあるのかもしれない。
だから、西アフリカで、文化と人に触れたいと思う。彼らから学ぶことは多いと思う。悲惨な過去から目を背けることはできないけれど、それでもやっぱり、アフリカの良い部分にたくさん触れてきたい。それが希望になると思うから。

 

【ひとりごと】

全然まとまってないし、すごく勝手な考え方だと自分で思う。

 

参院選を前に。

 

圧倒的な現政権への支持率と、投票率が50%を下回るのではと噂されるほどの有権者の関心の低さ。そうした中で行われる今回の選挙を前にして、巷に溢れているのは自民党圧勝を予想する声。
そんな中、1人区において自民党が勝てない可能性がありそうなのが、秋田、岩手、沖縄と言われている。僕もすごく注目している。特に秋田と沖縄に。

 

秋田の松浦大悟氏。選挙制度の弊害のひとつは、政治家が「目に見える、分かりやすい、票を集めやすい」ものに取り組みがちだということ。実際、ほとんど全ての政治家がそうであると思う。一方で、選挙に勝つというのは彼らにとって最大の、そして最低限の目標である以上、仕方がないことなのだとも思う。今のシステムの中で、政治家個人を責めることはできない。
一方で、「目に見える、分かりやすい、票を集めやすい」ものではない、しかし必ず必要なものもある。誰かがそれをやらなきゃならない。松浦さんはそれをやってきた人だと思う。社会のために、自分の信念をもって、自分の価値観に沿って動くというのは、簡単なことではない。特に、政治家という職にありながら貫き通すというのは、僕が思うよりも何倍も大変なことなのだと思う。僕は彼を尊敬している。そして、日本の国会に間違いなく必要な人だと思っている。

 

沖縄。ここにきて9条改正を明確に言及し始めた安倍総理。沖縄県民は参院選でどういう答えを出すのか。9条改正反対、せめて沖縄だけはNOを突きつけてほしいと思う(もちろん、広島と長崎も)。せめてそれだけは、と思う。

 

 

自民党の圧勝、僕はそれが望ましいとは思わない。だから、今回もやっぱり投票にいこうと思う。自分の1票がどれだけの意味を持つのか、そんなことを考える前に、投票することが先だと思った。

そして、こうしてブログを書こうとも思った。僕がこうして書くことで、果たして何票動くのかは分からない。むしろ、1票も動かないと考えるのが普通だろう。だけど、それでも書こうと思った。

 

 

先日、湯浅誠さんがこんなことを書いていた。

 

——————「最善を求めつつ、最悪を回避する」ことが重要

 

そして、こんなことも。

——————政治的中立とは、すべての候補者を平等に評価します、ということ。政治総体に対して批判的立場を堅持とは、「どうせ誰がやったってダメだよ」とか言いながら棄権する(もしくは白票)ということ。でもそれは、私がやらなくてもマスメディアがやっているし、多くの有権者がやっている。

 

 

僕も、それに倣おうと思う。

 

【ひとりごと】

あと2日。

 

 

「報連相」と「優先順位」

 

 

小さい頃から、「報連相」と「優先順位」は強く意識してきたと自分で思う。ただ、そうしたことの大切さを自分で気づけたわけではなく、周りの大人に教えられてきた。特に「報連相」に関しては、父親から徹底されていたように思う。報連相をしっかりしながら生じた問題に対しては全力でサポートしてくれたけど、報連相を怠った時には問題が生じたことよりも先にそれを責められた。

優先順位はそうして伝えられたものではなかったけど、自ら自然と優先順位をつけざるを得ない環境においてもらえた。子供の頃、クラスのみんなのお小遣いが月いくらなのか、お年玉を含めてお小遣い以外の臨時収入がどれくらいあるのか、お互いに聞き合って、みんなそんなものかと安心したり、想像以上にみんながもらっていることに驚いたり。そうした経験は誰しもあると思う。僕は常に後者だった。我が家が特別貧しい家庭だったというわけではないけれども、両親の教育方針だったのか、一ヶ月のお小遣いも、お年玉も、常にクラスの最下層だった。お小遣いアップを直訴したこともあったけど、そうしたら「お手伝いしたら10円」制度が導入された。額としては微々たるものだったけども、それでもお小遣いが増えるのは嬉しかったし、今にして思えば自分で働いてその対価を得るということを感覚的に学べたのはすごくよかった。

そうした状況は一人暮らしをしている今も変わらなくて、生活費は全て自分で稼いでいる。仕送りをもらっている周りの多くを見ると羨ましく思うこともあるし、たとえ学費は両親に払ってもらっていたとしても、それでも自分のお金で生活していることには一種の自信めいたものも感じている。自分の生活費は自分で払う。さらにその上で、色んな活動をして、旅もしている。そのために、徹底している「優先順位」。これがないと生活が成り立たないし、プラスアルファの活動に資金が回せない。時間だけでなく、お金に関してもひたすら優先順位。だから、そうして優先したものは本当に大切なものだし、ムダにはできない。

 

大変そう、と言われることもあるけれど、自分の与えられた環境・境遇を如何に楽しむか、活用できるか。それが大事だと学んでいる。そういう意味で、“お金が多すぎない”今の生活に、そしてそうした環境を与えてくれた両親にすごく感謝している。

 

【ひとりごと】

全部ひとりごと。

 

久しぶりに。

 

お久しぶりです。1ヶ月半ぶりのブログです。このブログを書き始めてからこれほどまでに間があいたのは初めてですね。この間特に何があったという訳でもないんですが、ただ何となくブログを書こうという気分になりませんでした。何かを悩んでいたわけでもないし、何も考えていなかったわけでもないんですが、ただただそういうことでした。

ただ、こうして再び書いているということは、要するに再び書きたくなったわけです。4日間行っていた実習から今日帰ってきたんですが、帰りのバスの中、疲れていたのに妙に頭が冴えてしまって眠れず、4時間ほどあれこれ色んなことを考えていました。いま自分がやっていること、将来のこと、過去のこと、あるいはNOSAIのこと(今回の実習でNOSAIにもお邪魔してきました)、大動物の獣医療のこと、そして国際協力のこと、アフリカのこと、宗教のこと。よくもまあこんなにあれこれ考えれたなと思いますが、それくらい頭が冴えていました。だからなのか、両手いっぱいいっぱいのようでいて、考えていたことを全てはっきり覚えています。

ということで、またしばらく定期的にブログを書いていこうと思いますが、バスで寝れなかった反動で今とても眠いので今日はひとつだけ簡単に。

 

 

 

世の中には、ダラダラ生きている人と、そうでない人がいる。ダラダラ生きるってどういうことだろうと思うけど、思考も行動も決断も全てがダラダラしていることだと思う。日々を何となく過ごし限られた時間をただただ浪費して、社会に溢れる情報に思考が洗脳され、自分の人生を自分で定義付けられない。そういうことだと思う。そうでない人、後者はその逆。そして、勝手ながら僕の感覚で言わせてもらえば、後者に該当する人は今の社会の中で2割くらいしかいないと思う。

ダラダラ生きている人を嫌いとは言わないけど、少なくとも信用はできないし一緒に何かを作り上げようとは思えない。話していてもつまらない。逆に、全力で生きている人とは話してみてもワクワクする。

 

僕自身、大学1年生のときはダラダラ生きていた。授業に行って、試験を受けて、部活をして、バイトをして、恋もして。全て適当に過ごしていた。そのうち適当に合コンとかいってみようとか、卒業に追われるように卒論と就活を済ませることになるんだろうと思っていた。自分の生き方に芯と呼べる物はなく、生活の全てがダラダラしていて、”それっぽい”大学生活を送っていた。

そうした時期があったからこそ、いま再び強く思う。

僕自身が、もっともっと全力で生きたい。がむしゃらに、遮二無二に、無我夢中で。全力で手を動かし、全力で足を動かし、全力で頭を動かしていたい。これが、僕の全てに通じる基礎でありたい。いや、そうあろう。

 

【ひとりごと】

しばらくあきましたが、これからまたよろしくお願い致します。