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Archive for 2013年5月

グローバル化と均一化

 

前回からの続き。

 

 

20世紀後半から現代にかけて、社会は大きなグローバル化を遂げてきた。情報通信インフラの整備は、世界中で起きていることをリアルタイムに知ることを可能にし、地球の真裏とも情報や意見の交換が用意に行えるようになった。人や物、そして金は国境を超えて動き、金融経済の肥大化は世界的な金融危機への大きな懸念を生み出した。

一方でその裏では、世界の均一化が進んでいる。文明と呼ばれるものがとうの昔に崩壊し、今では文化すらも危うい。日本に居ても、いかにも日本というようなものに出会う機会は少なくなってきているし、地域の特性すらも失われつつある。

 

今後ますます均一化が進むであろうこの社会において、人間はどのように変わっていくのだろう。均一化の波は衣食住に及び、情報に及んできた。次に及ぶのが人間の内面でなければいい。

 

全ての人が同じ思考回路で、同じ意見(そう呼べるかは分からないけど)を持つ。見た目のマネキン化だけでなく、中身までマネキンになってしまう時代がすぐそこにある気がして仕方がない。

 

【ひとりごと】

勢いで書いた。もう一度、きちんと考えよう。

 

流行っていい流行と流行っちゃいけない流行がある。

 

先週末、上野の国立科学博物館で見てきた「グレートジャーニー 人類の旅」

展示の主題は人類の進化とその暮らしに関するものでしたが、その背景には旅人・関野吉晴が抱く、現代人の生き方や生活様式への疑問、世界の民族に残る伝統的な生活様式から教えを抱こうとする姿勢がありました。彼が鳴らそうとしている現代社会への警鐘は、多いに共感できるものがありました。

 

 

僕には、今の世の中がこう感じられる。

みんな同じような服を着て、同じような髪型・化粧、さらには持ち物まで。それは日本国内だけに留まらず、世界の多くの文化都市で広く見られる。現代社会における高度な文明化とグローバル化は、一見すると地球上のあらゆるものの繋がりによる横の広がりを生み出しているようで、実は“流行”という名の下での単なる差異の消失のようにも感じられる。

 

外見だけなら別にいい。どんな流行が生まれようが、どんなに流行に染まろうが、別にいい。

 

僕が最も危機感を抱いているのは、本来は人それぞれ当然違ってしかるべき内面にも“流行”が存在し、その影響が余りに大きすぎるものに感じられること。この情報社会において、各個人の中で情報が情報の域を超えられないでいる。他人の意見が情報として取り込まれ、そのまま自分の意見に置き換わるっている。

 

朝のニュース番組でアナウンサーやらタレントやらが発するとても的を得てるとは言い難い意見は、その日の昼にはそのまま多くの日本人の意見となる。どっかの偉い評論家が述べたことは、その発言そのものがエビデンスとして引用されるようになる。週刊誌やらテレビCMに溢れる“もっともらしい真実”は、いつの間にか広く市民権を得るようになる。そうしたことは、日本だけでなく世界各地で、あるいは国を超えて起きている。

 

人類の歴史を振り返れば、大きさや種類は様々ではあれど、何かしらの形で流行というものは存在してきた。それは文明の発展にも寄与してきただろうし、文化の構築にも役立ってきた。
だけど一方で、現代における流行はさらに深い所にも及んでしまっている。それはまた、社会に対しても同様である。この種の流行は、文明や文化を先へと押し進めるどころか、その腐敗を招くことしかしないと思う。さらに言えば、人間の本質、人間が人間たるものすらも失わせてしまうかもしれない。

 

続く。

 

再び上京します。

 

ここしばらくバタバタしてますが、明日から再び東京へ。

月曜日には札幌に帰ってきます。

 

【ひとりごと】

初めてのジェットスター。

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社会の役に立つことが大前提。

 

今日はゼミの発表でした。

今回選んだのは、ケニア・ナイロビの近郊にあるKiberaスラムにおける重金属汚染と、住民の意識調査に関して。世界でも有数の高人口密度と広さ、人口を誇るKiberaスラムで、食料不足解決のために近年行われているsack gardeningと呼ばれる農法に潜む危険性を指摘する論文でした。数年前からはフランスのNPOの支援も入り、本格的な耕作地が確保できなくても簡便に行える手法として注目されていましたが、いろいろと問題もありました。
リファレンスを中心に周辺情報もかき集めましたが、もう少し比較対象があればよかったな、といった感じでした。また、社会へのインパクトや重要性・その位置付けなんかも分かりやすく示せたら、との指摘も頂きました。

 

単に汚染状況だけのサーベイランスに留まらず、こうして実社会が直面している問題も交えながらの視点で見ると、すごくモチベーションが上がります。ということで、明日からまた頑張ります。

 

【ひとりごと】

夏にKiberaを実際に見れたら、と思う。

 

Re:きれいごとを言う人ほど泥臭く生きている。

 

「きれいごとを言う人ほど泥臭く生きている。」

 

4ヶ月前のブログ。公開以来ずっと、未だにコンスタントに閲覧して頂いている記事。

ということで、初めてのリブログ…に失敗したのでURLを貼っておきます。

 

きれいごとを言うためには、泥臭く生きなきゃならない。

泥臭く生きる覚悟の無い人には、きれいごとは言えない。

 

泥臭く、遮二無二、無我夢中でやりましょう。

そして、最高のきれいごとをほざきたい。

 

【ひとりごと】

これが既に”きれいごと”だったりする。だから、泥臭く生きる。

 

GW、充実しています。

 

今年のGWも終盤ですね。
と言っても、実感の伴わない完全な人事です(笑)

 

僕は研究室とバイト、そして食事とシャワーと睡眠のためだけの帰宅を繰り返すいつも通りの日々を送っています。いつもと違うのは、授業が無いので色んなことがサクサク進むということくらいでしょうか。

思えば、去年や一昨年もあんまり変わらなかった気がします。ちょっと変わったのは、家で行っていた会議やメールチェック、書類作成が研究室で行われるようになったことくらい。年末年始やお盆も似たような感じですし、ここ3年くらい社会から完全に乖離している気がします(笑)

 

ただ、今日気がついたことがひとつ。

先月1日から正式に研究室に配属して頂きましたが、4月2日に札幌に帰ってきて以降、土日祝日を含めて研究室に行かなかった日が一日たりとも無いということ。休みの日に行くことを強要されたりはしてないですし、そんなに毎日行かなきゃどうにもならないような状況でもないんですが、自然と毎日行ってます。

つまり、好きなんでしょうね。こうして、苦せずして自分の意志としてやっていられること、最高ですね。本当にありがたいことだと思います。ということで、なんだかんだで僕にとってはこれが充実したGWなんでしょうね(笑)

 

【ひとりごと】

楽しいだけじゃなくて、その先に結果を出さなきゃならない。

 

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議論が足りない。国の未来を考える姿勢はさらに足りない。

 

5月3日は憲法記念日ということで、いま話題の96条改正について僕なりに思うところを書いてみます。

 

 

日本国憲法第96条には、次のように書かれている。

第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

 

いま、議論となっているのはこの「三分の二」を「二分の一」にしては、というもの。それに関連して、日本国憲法が硬性憲法だとか、60年以上改正されたことがないのは異例だとか、二分の一では法律と差別化できないとか、色々と言われていますね。

 

僕が思うのは、そもそも96条を変えようとする背景がそれ相応しくないということ。

「GHQ占領下で作られた憲法を国民の手に取り戻す」と言えば聞こえはいいけども、要するに9条を含めいくつかの条項を変えたいということ。ただ、ここ数年それを目指してやってきたけど、どうもうまくいかない、三分の二は難しい、そもそも議論が深まらない。だからまずは96条を、ということ。

 

改憲が良いものかどうかは別として、改憲がなかなか行われないのは議論が深まっていないから、その一点に尽きると思う。同じく硬性憲法を有する欧米諸国で過去何度も改憲が行われているのでも分かるように、60年以上もの間日本国憲法が変わらなかったのは、日本国憲法が硬性憲法だから、変えにくい憲法だからではない。60年もの間、改憲の議論が国会でタブー視され、ほぼ全くと言っていいほど議論が行われてこなかったから。もちろんそれは国会だけの責任ではなく、世論やマスメディアも含め、日本社会全体において憲法改正を討議する環境がほとんど設けられてこなかったということ。

今回の96条改正の問題。僕には「必要なステップを今まで踏まずにいたせいで成し遂げられなかったことを、必要なステップを省略することで成し遂げようとしている」ように思える。硬性だろうが軟性だろうが、憲法ってそういう扱いをされるべきものではない。踏むべきステップは踏まなければならない。二分の一とか三分の一とか、そういうことが大切なのではない。二分の一でも必要なステップを踏めるのであればそれで構わないが、そのステップを省くための”簡素化”はあってはならない。

 

「日本国民の手に取り戻す」とか、そういう言葉につられちゃいけない。96条を変えるということが、憲法を変えるということが、どういうことなのか、日本に何をもたらすのか、その一点において一人一人がきちんと考えなきゃならない。

 

【ひとりごと】

法学関係に関して、僕は全くの素人。色んな意見が聞きたい。