アーカイブ

Archive for 03/19/2013

現代社会に蔓延る”不可視な貧困”を考える。

 

CHANGE weekは今日で4日目。ついに明日が最終日です。

今日は夕食後にOxjamが行われました。ダンスや歌、漫才、一発芸など、参加者が自由に出し物を行い交流を深める場ですが、今年は全体的にクオリティが高かったです。 また、2012のメンバーも何人か駆けつけてくれたので、1年振りにお互いの活動の話などをすることもできました。時間が経っても、こうして繋がっていられるというのは素敵なことですね。

 

さて、今回のプログラムの本旨とは少し異なるかもしれませんが、休憩時間などのフリーな時間に「日本の貧困」についても話題になっています。僕のところに話を聞きにきてくれる人も多いので、アウトラインだけ簡単にここでも述べておこうと思います。

 

 

まず、日本国内にも貧困が存在する、というのは社会一般にとって共通認識ではないでしょう。日本は先進国であり社会保障も充実しており貧困下に生きる人はいない、と考える人も多いと思います。関東圏であれば寿町だったり、関西圏であれば釜ヶ崎であったり、「国内のスラム街」と呼ばれる地域もそれほど知られているものではありません。

 

いったい何故か。

 

 

日本における「現代の貧困」は、かつての日本あるいは現在の途上国で見られる”可視的な貧しさ”と直接結びつけられる「貧困」とは異なるものだからなのだと思う。社会の発展に伴い、“目に見える貧しさ”はあってはならぬものとして表面的に漂白されていく中で、それでも“貧困”は残る。そうして残った“貧しさ”は、一方で達成され続ける“豊かさ”との狭間に生まれる“不可視な存在”となり、より深刻なものになっていく。

例えば、街作りを進めるにあたっての「景観を損ねる」という理由だったり、国際大会を招致するにあたっての「イメージダウンに繋がる」という理由だったりで路上生活者が公園から締め出される。生きていくために違法な水商売を行う女性は、繁華街での客引きが禁じられ、その存在は“見かけ上”消える。

一見すると社会がクリーンなものになったように思えるけども、その存在自体が無くなったわけではない。「臭いものに蓋をする」的な考え方で進められてきた社会からの締め出しは、貧困の不可視化を招き、解決に向かわせるどころかますます悪化させている。

 

これは、決して当事者だけの問題ではない。社会構造の問題であって、その構造を担いその中で生きる全員が考えなければならない問題。ましてや、決して人ごとでもない。誰にでも起こりえること。順風満帆な人生を歩んできたのに50歳を前にして会社が倒産し、路上生活を余儀なくされそのまま社会から締め出された人を僕は知っている。

 

一人一人が、この国のこれからをきちんと考えなきゃならない。

 

【ひとりごと】

みんなで考えていこう。